シービスキットは1933年、ケンタッキー州のカリボーン牧場で生まれた。父馬はハードタック(固パンという意味、おそらくは気が荒い馬だったのだろう)、母馬はマンノウォア(
man of war の略で戦士という意味か)。生まれたばかりの子馬は鹿毛(茶色の毛)の小柄な馬だったが、全身の筋肉は強靭かつ敏捷で、両親の長所を受け継いでいた。
鹿毛の子馬は、父親のハードタックにちなんで、シービスキットと名づけられた(つまり、固い乾パンを一回り小さくした固焼きクッキー=シービスキットということで)。仔馬は父親から、気難しさと向こうっ気の強さを受け継いでいたようだ。馬主はグラディス・ミルズで、専属の調教師はサニー・ジム・フィッツシモンズだった。
だが、映画では、潜在的な素質はすごかったのだが、正確がおっとり・のんびりしていたせいで、まともな調教を受けなかった馬として描かれる。スポイルされたため、やたらに気難しい荒馬に育ってしまった。そのくせ、食べる量は普通の馬の何倍にもなった。
馬主は、何の役にも立たない上に餌代だけは嵩む厄介な馬ということで、チャールズ・ハウワードに安値で売り払ってしまった。
実際には、調教師フィッツシモンズは、シービスキットの潜在能力を高く評価していた。けれども、彼の手元には、ギャランフォックスというすこぶるつきの名馬がいて、彼はこの馬の訓練に心血を注いでいた。やがてギャランフォックスは、北アメリカ重賞レイスの3冠馬となる。当時の競走馬育成のシステムでは、優秀な調教師でも何頭もの名馬を同時に育てることはできなかったようだ。
いきおい、シービスキットへの調教は「お座なり」になってしまい、この馬は名馬の並走馬としての役割を押し付けられてしまった。それでも、アメリカでもトップレヴェルの速い馬の並走ができるほどには、訓練されてはいた。
シービスキットは3歳からレイスに出走した。位置づけの低いレイスだったが、35回の出走で優勝5回、2位は7回という、スポイルされた馬にしては破格の好成績を収めていた。天生・生来の素質はずば抜けていたのだろう。
馬を預かったフィッツシモンズは、チャールズ・ハウワードに8000ドルで売却した。今の価格相場で1000万円くらいか。
しかし、映画ではもっと感動的でロマンティックに、シービスキットがハウワードの厩舎にやって来る経過が描かれている。
この物語は、人と人との、そして馬と人との素敵な出会いの連鎖が美しく描かれている。
まず、チャールズとマーセラとの素敵な出会いがあった。チャールズは、愛する妻への「最初の贈り物」として、ビュイックの保管倉庫になっていた厩舎を馬を調教する設備に改装して、その厩の主を購入することにした。そこで、あちらこちらの馬牧場と厩舎を回っては、馬を物色していた。
そんなある日、チャールズは、原野に野宿しながら年老いた葦毛(農耕馬かあるいは障害走用の大型)の馬の面倒を見ているトム・スミスを見かける。近くの牧場関係者に尋ねると、その男は人間嫌いの変わり者で、最近、足の腱を切ってしまって射殺されようとしていた葦毛を貰い受けて治療・調教しているのだという。
世間では「はみ出し者」「埒外者」という烙印を押されていた。
チャールズは、自分自身も半分投げていた人生を取り戻しつつあるということで、その「役立たず」の馬を大切に見守っている「変人」に強い興味を抱いた。
そこで、深夜、野宿しているトムに会いに出かけた。
会ってみると、トムは偏屈者ではなく、大変に穏やかで大らかな人間だった。
チャールズは尋ねた。「なんでまた、そんな足を傷めた馬を治療し、面倒を見ているのか」と。
「少しくらい欠陥があっても、命あるものを殺すことはない。生き物はそれだけで、生きる価値があるものさ」とトムは答えた。
チャールズはその答えがいたく気に入って、自分の厩舎の調教師になってくれと頼み込んだ。 翌日から、ハウワード夫妻は厩舎回りにトムをともなうようになった。