チャールズ・ハウワードは西海岸に移住し、自転車屋から自動車販売業に乗り換えて大成功した。だが、最愛の息子を事故で失ってしまったうえに、妻とも離婚することになった。
一方、大不況のなかで、ジョン・レッド・ポラード少年は生き延びるために家族と離別するしかなかった。彼はやがて競馬の騎手になったが、ずっと下積みの生活を強いられていた。
トム・スミスは馬の調教では飛び抜けた能力をもちながらも、仕事の機会に恵まれることもなく野宿しながら暮らし、「自然と馬を愛する変人」で通っていた。
チャールズはやがて新しい伴侶を得て、厩舎の運営や競走馬の育成に関心を向けるようになり、トムを厩舎管理人兼調教師として雇うことになった。トムはチャールズから、気が荒いシービスキットという若い馬を調教をまかされた。
ジョン・レッド・ポラードはトム・スミスに見込まれて、シービスキットの騎手になった。彼は馬と心を通わせて、トムの指導どおりにその素質を引き出していった。やがて、ポラードが騎乗するシービスキットは、海岸一帯のレイスで圧倒的な勝率をあることになった。ハウワードは東部の競馬界のチャンピオン馬、ウォアアドミラルへの挑戦を企図した。
ウォアアドミラルとのマッチレイスに向けたシービスキットの調教は進んだが、レイス直前、ポラードは悲運に見舞われた。乗った馬が暴走して、全身の骨折を折る重傷を負った。結局、マッチレイスの騎手は親友のウールフになった。ポラードは、ウールフにシービスキットの特性に合った作戦を授けて、見事、勝ちを収めた。
だが、その栄光もつかの間、こんどはシービスキットが脚に傷害を負った。そこから、再起不能と診断された馬と騎手のペアの、復活に向けた挑戦が始まった。
私は馬たちが疾走する光景を見るのが好きだ。別に競馬場に限らない。草原や荒野でもいい。西部劇でも、決闘場面よりも馬の群れが走るシーンの方に惹かれていた。あるいは、カウボウイが馬に乗って荒野を走る姿に。
とはいえ、ギャンブルとしての競馬はやったことがない。純粋に馬たちの走りを楽しむのが好きなのだ
統計経済学に触れた人間としては、資産の食い潰しでしかない社会現象に加わるのは、まことに忍びないからだ。ただでさえ寂しい懐を、それ以上に空虚にする酔狂さは持ち合わせていない。
だが、競馬、競走馬の育成はおそろしく金のかかる社会経済活動で、人と馬とが触れ合う貴重な文化でもある。だから、多くの人びとがポケットマニーを、価値と勝運を見込んだ馬につぎ込むことは、別に私の懐は少しも痛まないから、大変結構なことだと思う。
馬券を買う人びとの散財が、多くは射幸心に目がくらんだ無駄な投資ではあるが、競走馬の育成という文化を支える資金を生み出すとすれば、それは社会に必要な富の再分配ではある。だから、ことさらギャンブル反対とは言わない。
さて、この作品の主人公たちの1人というか1頭が、シービスキットという名のサラブレッドだ。
サラブレッドは、 Thoroughbred 。もともとは、 thorough (「全面的な」「完全な」)と bred (「血統」「交配種」)との合成語だ。「完全な血統」すなわち「純血種」という意味の用語だ。
競馬以外では、人間が、特定の目的のために優秀な遺伝形質を持つ個体どうしをかけ合せて創出した生物種すべてを意味する。逆に交雑種をハイブリッド hybrid と呼ぶ。
で、競走馬としてのサラブレッドとは、17〜18世紀に中東方面からブリテンに優秀な競走馬育成のために種馬として持ち込まれたアラブ種の馬の子孫だという。騎士を乗せるためのヨーロッパの大型の馬ではなく、競争心・闘争心と俊敏さにあふれたアラブ馬の血統から、ヨーロッパの競走馬は生まれたようだ。
マンガ『チェーザレ』のなかで、主人公がアラブ馬の優秀さを讃える台詞があったが、その馬の子孫の遺伝子が競馬の世界を支える大きな要因の1つとなっているわけだ。
私としては、競馬では「平地レイス」よりも「障害走」、 staplechaser (断郊競走)が好きだ。ディック・フランシスの影響だ。