補章-4 ヨーロッパ諸国民国家の形成史への視座
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だが、こうしてできあがった国境による「遮断・分断効果」はあくまで相対的なもので、世界市場的連関をはじめとする社会関係の連鎖は国境線を貫いて広がっていた。むしろ、ヨーロッパ的規模での社会的・経済的連鎖ならびに政治的=軍事的環境のなかで、あちらこちらで地方的な政治的=軍事的な枠組みとしての諸国家が形成されたのだ。つまり、世界市場と諸国家体系という――局地的・地方的(一国的)制限を超えた――連関が国家の形成・変動過程を揺さぶり続けてきたのだ。いわば、世界経済という統一的な力学場 field のなかに、複数の重力中心ないし磁極としての諸国家が相互に影響し合いながら発生し、運動してきたのだ。
したがって、いかなる国家も、多数の国家の複合的な並存=対抗関係においてしか理解できないのだ。
以上のような観点からすると、国家を一国的な文脈のなかで「政治的・法的ないしイデオロギー的上部構造」として「経済的土台」に照応的に説明する静態的な方法は、とることができない。
これまでに述べたことから明らかなように、私たちの方法論では、総体としての社会的再生産または経済的再生産において上部構造
Überbau とは、その基層にある構造 Unterbau を支配・制約する〈より包括的な権力体系ないし支配体系〉を意味する。経済的なものであるか、政治的なものであるかということは、基層構造と上部構造とを区分する基準とはなりえない。
私たちの見方では、権力または支配の包括性のより大きいものがより上部の構造に属すことになる。現実の歴史のなかでは、長期的な社会の動態構造については、上部構造が基層構造を規定する度合いが大きいということになる。そのような包括的な権力構造・支配体系は世界的規模で存在している。
国家とは、世界経済の相対的な分割単位にほかならない。世界経済の内部では、国境を貫いてあるいは超越して社会的・文化的な代謝運動の連鎖が形成されていて、支配=従属ないし中核=周縁という序列関係 Hierarchie が織りなされているのだ。
一国史的な視点から、経済的土台によって規定されるものとして政治的・イデオロギー的上部構造を派生的に説明する方法は、とんでもないナンセンスだということになる。
いわゆる「国民経済 Nationalwirtschaft 」を土台にして国民国家を説明することはできない。国民経済という事象は、世界経済の諸国民国家への分割という政治的・軍事的構造を前提としたものであって、すなわち政治的・軍事的現象であるから、それをもって「経済的土台」と標識することは無意味としか言いようがない。
国家は、中世後期に始まる統治秩序の変容のなかから、変容の結果として生まれてきた。中世の統治秩序は「封建制 Feudalismus / feudal system 」と呼ばれる。この封建制の実態について、国家がある状態と比較しながら見てみよう。そのさい、すでに再三述べたように、封建制というものは中世社会秩序の全体を示すものではないし、生産様式を意味するものでもない。
封建制は領主や騎士たちのあいだの相互依存関係を意味するが、この相互依存関係は「授封=臣従制度 Lehenswesen 」として観念されていた。だが、法観念としての授封=臣従制度には、認識をゆがめ攪乱する多くのレトリックがまとわりついている。その最たるものが、中世の「王国」や「帝国」の観念である。
中世ヨーロッパの交通通信技術や軍事技術や行政手法では、実際にはきわめて狭い地域しか実効的・恒常的に支配統治できないのは当然のことだった。ところが、どういうわけか西ヨーロッパ各地に散開・散在したゲルマン諸族の族長とその従者たちは、同盟したり勢力争いをしたりしながら、単に名目上ではあれ、「王国」あるいは「帝国」などと観念される秩序を形成していった。しかし実態としては、ごく限られた局地的範囲を掌握するにすぎない政治的・軍事的制度(領主制支配圏域)しか成立しなかった。実効的な支配はきわめて局地的にしか成立しなかった。
だが他方で、族長や諸侯、領主層の意識や行動をそれなりに制約する王国または帝国という統治観念・法観念が存在していた。メローヴィング王朝やカローリング王朝は、名目上、広大な王国版図をもっていた。
すでに見てきたように、名目上、王国または帝国として観念された広大な圏域――実態としては多数の地方君侯領主たちが分立割拠し対抗し合っている圏域――において一時的・相対的な平和を維持するためにできあがっていったのが、授封=臣従制度だった。
授封=臣従制度では、君侯領主、騎士たちのあいだの相互依存関係は独特の階層序列として表象された。それはこういうことだ。
より上位の領主の統治を補佐し、軍役を提供することを条件として、つまり臣従を条件として、下位の領主たちの地方的な統治権と土地支配を認めるという関係(誓約)が成り立っていて、下位の領主の支配地は上位の領主によって授封された土地と意味づけられた。しかし、授封=受封(あるいは臣従=恩顧)の論理形式は外観、つまりは法観念上の形式にすぎない。実際上、授封=臣従制度とは、分立割拠する多数の統治権力のあいだの、言い換えれば、きわめて局地的な規模でしか統治できない領主たちのあいだのきわめてもろい(移ろいやすい)相互依存関係の表現形態だった。
中世の運輸通信手段が未発達な状態では、遠方に人員や資源を送り、広範囲にわたって権威や支配を伝達し相手に受容させることはほとんどできなかった。そこで、実際には、いたるところで地方的・局地的権力が独立して秩序を形成し維持するという構造が成り立っていた。各地方での統治に必要な財源・資源は〈現地調達・現地消費〉するしかなかった。ゆえに、個々の領主支配圏域や都市などという局地的な政治体を超えるような多少とも広い地理的規模をもつ秩序(王国や帝国)は、各級の領主たちの――たぶんに観念的な――相互依存関係から成り立つほかはなかった。
領主たちは局地的な資源と人間しか支配できないがゆえに、戦争や遠征を頻繁におこなうほどの力はなかったから、力関係に応じて彼らのあいだの相互依存関係を授封=臣従制度として観念し、当面、相互の平和と共存を確保することになった。ゆえに、王国や帝国、公国などの秩序は、授封=臣従制度をもってくくられ、統治諸階級のあいだの法観念=共同主観となった。だが、その実態としては、政治的・軍事的側面における、局地的で微小な統治単位のあいだのきわめて変動しやすい結びつきでしかなかった。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成