補章-4 ヨーロッパ諸国民国家の形成史への視座

この章の目次

1 国家の属性をめぐって

ⅰ 国家がない時代の政治状態

ⅱ 国家の属性とは何か

ⅲ 国家形成をめぐる競争

ⅳ 世界市場的連関と諸国家体系

2 中世の政治的・軍事的秩序と封建制

ⅰ レーエン制度の実態

ⅱ 王国制度の実態

ⅲ 封建的王国の幻想

例証 ブルゴーニュ公国のレジーム

中世晩期の政治体

イングランド王国の実情

フランス王国の実情

ⅳ 中世の政治的・軍事的秩序

3 世界市場的連関における国家形成の歴史

ⅰ 都市の優越の終焉

ⅱ 多数の諸国家の分立と競争

ⅲ 土地貴族と商業資本との結合

4 考察の時空的範囲

◆例証 ブルゴーニュ公国のレジーム◆

  ここで13世紀後半から15世紀半ばまで、当時のヨーロッパで最大最強の「王国」をなしていたブルゴーニュ公国を例にとって見てみよう。
  ブルゴーニュ家門の支配地は15世紀前半に最大となるが、その名目上の版図は、フランデルン、ブラバント、ホラント、ルクセンブルク、ブルゴーニュ、フランシュ=コンテなどの各地方におよんでいた。当時の「基準」から見て、――豊かなフランデルン諸都市を支配していたこともあって――頭抜けて君主権の強大な王国をなしていた。では、ブルゴーニュ宮廷はこの広大な王国をどのように統治していたのだろうか。

  上記の各地方、たとえばフランデルンやブラバントはそれ自体で独自の伯領や公領などの自立的な「侯国」をなしていた。それゆえ、ブルゴーニュ公は、フランデルンではフランデルン伯として、ブラバントではブラバント公として、ホラントではホラント伯として、ブルゴーニュでは文字通りブルゴーニュ公として、それぞれ別個の君侯として君臨していた。それぞれに家政装置=宮廷を設けていたのであって、王国全体を統治する共通の組織はなかった。
  もちろんブルゴーニュ家としての固有の家政組織はあったのだが、それは都市を含む各直轄領の統治と財政収入を管理するためのものにすぎなかった。平常では個別の統治で財政収入は費やされてしまい、王国全体に共通する財政組織はなかったと見られる。
  そして、フランデルンやホラント、ブラバントなどの各侯国の内部でも、直轄領の内部でも有力都市は自治権を与えられていたし、直轄領外部では地方領主たちや諸都市は固有の法をもつ政治体をなしていた。
  しかも、ブランバントの南部からルクセンブルクにいたっては、ブルゴーニュ公家の所領は――面積の合計では最大とはいえ――離れ離れに分散していた。村ごとに領主が違っているだけでなく、同じ村のなかでも圃場・耕作地ごとに領主が違っていた。そこには王国の外部の諸侯領主の所領がまだら模様に割り込んでいたうえに、在地領主や修道院領、都市、農民集団の独立性はきわめて強かった。
  こうして、統治高権 Hoheit や主権 Souveränität にあたる権力=権限はきわめて分散的だったわけだ。
  ブルゴーニュ公の支配地は、ガリアとゲルマニアの境界をまたいで広がっていた。そのため、フランデルン伯、ブラバント公、ホラント伯、ブルゴーニュ(ブルグント)公としてはドイツ王国=神聖ローマ帝国の領邦君侯でもあった。だが、フランデルン伯は、もともとカペー家との血縁関係があったことから名目上、代々フランス王に臣従する地方領主としての家格をもっていた。つまり、あくまで名目上にすぎないが、ブルゴーニュ公はフランス王やドイツ王=皇帝への臣従義務を帯びていたのだ。

  ブルゴーニュ公は君主権の強化に盾突く諸地方(在地領主や農民集団、都市など)を軍事的に征圧しようと試みたが、1477年に戦乱の渦中で敗死し、まもなく家門は断絶した。公位とその領地のほとんどは、地方ごとの分断状態を残したまま、ハプスブルク家によって継承された。

◆中世晩期の政治体◆

  以上に見てきたことからすると、のちの国家に比類すべきような政治体、つまり自立的な政治的=軍事的単位とみなすことができるのは、一円的にまとまった地理的範囲をもつ有力君侯領主の直轄領やイタリア都市国家ということになる。
  ただし、直轄領のなかでも、フランドルやホラントの有力諸都市のように固有の武装権力を保有する自立的な政治体があれば、それらを除くことになる。だがこの場合、それらの都市には周囲の小都市や農村を支配するための伯の宮廷装置や財政機構があるので、枢要な統治制度を欠いた中途半端ものとなる。
  こうして、中世の政治体には主権=統治権の一体性が欠如していることになる。というわけで、私はそれらを「政治体」とは呼ぶが、「国家」とは呼びがたいと考える。しかし、それら――君侯の家政装置が直轄支配する圏域の統治構造――を国家と呼んでも、幻想的な王国や帝国、公国などを「封権的国家」と呼ぶよりは、ずっとましだといえる。

  そこで、マルクス派的な発想に立って、住民の諸階級への分割と階級闘争、階級支配が存在する社会には「国家が必然的に存在する」と考える立場に立つなら、王国や帝国ではなく、これらの局地的ローカル政治体を「国家」と呼ぶべきだろう。

◆イングランド王国の実情◆

  11~12世紀のイングランドでは、成立したノルマン王朝王権が、それまでの征服活動で貢献のあった忠誠心に比較的富んだ領主たちを直属授封臣 baron として域内(ブリテン島の面積の半分に満たない圏域)に配置していった。とはいえ、その臣従関係が有効に成り立っていたのは、征服過程および王権成立直後の、王の権威が強固な時期だけだった。
  王権はその後も権威の伝達や浸透のために、戦略的に重要な辺境の伯として信頼する側近領主たちを送り込んだり、要衝を擁する地方に王の兄弟親族を派遣したりしたが、王の信頼を得て派遣された領主たちも、時間の経過とともに、あるいは代替わりともに官職や権力を世襲化し、王権とは距離を置くようになっていった。彼らは地方支配圏や所領のなかで統治組織や所領経営組織を自らつくりだしていくにしたがって、地方的利害や独自の利害を意識して行動するようになり、場合によっては王権に盾突くようになっていった。
  当時、王権とは、ある1家系を盟主として結ばれた有力な領主(騎士)たちのあいだの同盟関係のうえに成り立つ権威にすぎなかった。ごくパースナルな連合関係であって、王の権威が十分に強力なあいだ、ないし同盟が強固に保たれているかぎりで成立するにすぎない特殊な状態だった。

◆フランス王国の実情◆

  フランク王国では、9世紀以降、王国の統治管区であった伯領の多くは解体していった。伯の権威は衰退し、城砦を中心に局地的圏域を実効支配する中小領主たちが、分解した伯の権力を行使していた。やがて、城砦領主たちのうちの有力者(諸侯と呼ばれる)が周辺の領主や騎士たちを統合し、統治圏域を拡大して新たな伯領や公領を形成していった。中下級領主や騎士たちからすれば、有力領主を盟主=君侯に推し立てた貴族同盟を結成しているという状態だ。
  12~13世紀、西フランクのカペー王権は、ヨーロッパの有力都市パリを支配したものの、ほかの諸侯と比べて大いに見劣りする、それこそ弱小な地方領主にすぎなかった。カペー家宮廷の評議会や顧問会議には、直轄領の内部と近隣(イール・ドゥ・フランス)の弱小な下級領主たちが参集するだけだった。ガリア各地の有力な諸侯は、王の名目上の権限をまったく無視していた。
  たとえば、フランスの西半分ではノルマンディ公あるいはアンジュー家の権力が優越し、残りの部分にはイベリアの君侯たちの強い影響力がおよんでいた。東部ではブルゴーニュ公が領域国家を形成し始めていて、フランシュ=コンテやフランドル、ブラバント、ライン地方などを統治し、ヨーロッパ最強の君侯として振舞っていた。そして、南部には地中海貿易圏を支配する北イタリア諸都市の影響力が強く浸透し、あるいはイベリアのアラゴン・カタルーニャ王権の影響がおよんでいた。ゆえに、中世晩期になっても、実体としては「フランス王国」はどこにも存在しなかった。

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世界経済における資本と国家、そして都市

第1篇
 ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市

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序章
 世界経済のなかの資本と国家という視点

第1章
 ヨーロッパ世界経済と諸国家体系の出現

補章-1
 ヨーロッパの農村、都市と生態系
 ――中世中期から晩期

補章-2
 ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
 ――中世から近代

第2章
 商業資本=都市の成長と支配秩序

第1節
 地中海貿易圏でのヴェネツィアの興隆

第2節
 地中海世界貿易とイタリア都市国家群

第3節
 西ヨーロッパの都市形成と領主制

第4節
 バルト海貿易とハンザ都市同盟

第5節
 商業経営の洗練と商人の都市支配

第6節
 ドイツの政治的分裂と諸都市

第7節
 世界貿易、世界都市と政治秩序の変動

補章-3
 ヨーロッパの地政学的構造
 ――中世から近代初頭

補章-4
 ヨーロッパ諸国民国家の形成史への視座

第3章
 都市と国家のはざまで
 ――ネーデルラント諸都市と国家形成

第1節
 ブリュージュの勃興と戦乱

第2節
 アントウェルペンの繁栄と諸王権の対抗

第3節
 ネーデルラントの商業資本と国家
 ――経済的・政治的凝集とヘゲモニー

第4章
 イベリアの諸王朝と国家形成の挫折

第5章
 イングランド国民国家の形成

第6章
 フランスの王権と国家形成

第7章
 スウェーデンの奇妙な王権国家の形成

第8章
 中間総括と展望