見どころ
1950年代はじめのアメリカでは、議会に主導された「非アメリカ的活動」の糾弾運動が展開されていた。
攻撃の矛先はマスメディア、わけてもハリウッドの映画界に向けられた。批判精神や表現の自由を求める映画界のリベラリストたちの多くが、実際には根拠ない理由――共産党員だとかそのシンパだとかいう虚偽の理由――で、議会の糾弾を受け、中央政界に靡いた――批判精神を失った――マスメディアによる「袋叩き」に遭遇した。
そんな映画界で脚本家の道を歩み始めたピーター・アップルトンは、強い上昇志向を持っていた。だが、高い知性をもつ彼は、売上と観客動員のためならどんなあざとい手段も用いるハリウッドの商業主義には辟易してもいた。
ところが、「赤狩り」の嵐は彼の身辺にもおよんできた。大学時代の友人が議会の糾弾を逃れるために、でっちあげの「共産党員(シンパ)リスト」を提出し、そのなかにアップルトンの名前があったからだ。議会委員会から公聴会への召喚状が送りつけられたのだ。
追い詰められ絶望した彼は、泥酔して車を運転して、川に転落してしまった。
そのまま流されて、ある田舎町の海岸に打ち上げられた。事故のために記憶を失っていた。
ところが、彼は、第2次世界戦争でヨーロッパ戦線に送られたまま消息を絶った、その町の若者、ルーク・トゥリンブルに生き写しだったことから、町の人びとから、映画館経営者の息子のルークとして歓迎されてしまった。
その町は戦争後の経済の転換や景気の上昇からすっかり取り残されていた。しかも、ヨーロッパ戦線や太平洋戦線に町から送り出した若者の多くが帰還できなかった。町は沈滞ムードに沈んでいた。人びとは「希望の星」を求めていたのだ。
アップルトンは、自分が何者か思い出せないまま、しだいにルークの役割を演じて、町の活性化の活動をリードしていく。ルークの婚約者アデルとも親密になった。
だが、ある日、彼は記憶を取り戻して自分が何者かを思い出した。議会から召喚され糾弾を受ける身だったのだ。
FBI当局に捕縛されて、アップルトンは議会の委員会で追及を受けることになった。ところが、この査問委員会は、裏取引が横行する、議会制度とマスメディアを利用した「政治ショウ」でしかなかった。そして、強硬派委員は、この機会を利用して徹底的に犠牲者をいたぶろうと企んでいた。
アップルトンは、虚偽に満ちた政治ショウのなかで「アメリカの民主主義」や「自分らしさ」を回復するために「ささやかな闘い」を試みようとした。
とういうような物語をつうじて、この映画は、一方で「国家政治の頂点」で演じられる欺瞞に満ちた政治ショウ=キャンペインの本質とその犠牲者の苦悩を描き、そして他方で地方都市の住民たちの地道な生き方と希望を描き出す。
政界の欺瞞性と若者の真摯さとの、このコントラストが見事である。
政治が低劣な茶番劇のような低劣な見世物なってしまった現代社会で、草の根で生きる人びとの生活や希望こそが民主主義を支えるものであるという「ごく単純で当り前のこと」を伝えるメッセイジが伝わってくる。