戦争後の世界秩序の再構築・再編をめぐって、アメリカのエリートなかに激烈な路線闘争、イデオロギー闘争があったということだろう。政策=イデオロギー闘争の焦点となったのは、国務省だったようだ。共和党保守派によって、外交畑やその政策立案過程から左翼に寛容なリベラリストを駆逐していく運動が展開された。
そのキャンペインの先頭に立ったのが、ジェセフ・マッカーシー元老院議員だった。
しかも、偶然なのか、FBI長官がエドガー・フーバーだった。あるいはトゥルーマン大統領陣営は、連邦政府での保守革命を遂行するために、策謀好きの強硬右翼を政府機関の主だったポストに据えたのかもしれない。その目論見は成功だった。
彼らの政治構想の奥深くには、1930年代に民主党政権によって展開されたニューディール改革がつくり出した統治機構や経済管理機構――共和党右翼はそれらがリベラル派の温床だと見ていた――を、このさい完全に破砕しようという目的があったのかもしれない。連邦政府が大恐慌で麻痺し疲弊した経済や社会を再構築するために導入した管理=介入メカニズム、それは経済への国家装置の介入や計画的管理、広範な社会政策を含んでいた。
世界戦争になってから、その機構は特殊アメリカ型の〈軍産複合体〉というヘゲモニーブロックを構築する方向に動員されていくのだが。その意味では、共和党政権は政府調達における軍事優先の仕組みは残し、むしろ強化していった。
共和党保守派は、軍産複合体の中枢部を強化しながら、経済と社会への中央政府の経済市場への介入の装置をどんどん解体していく。介入や社会政策にともなう政策理念、リベラル派イデオロギーをも破壊し、駆逐していかなければならない。もちろん、リベラル派の官僚団も。
それが、議会の委員会やマスメディアを徹底的に利用する形での反コミュニズム・キャンペインとして展開されていった。そして、この動きへの過剰適応が現れて、自己増殖していく。
そして、攻撃の矛先は、政府機関からマスメディアや文化人、芸術家などに広がっていく。そこでは、まるで映画のシナリオのように、筋立てが用意され、型どおりの糾弾・断罪の舞台装置がつくられていくことになった。
冷静な反論や客観的な証拠による検証は完全に置排除されて、非難キャンペインが独り歩きしていく。
こうして、アメリカのメスメディアや言論、芸術、映画界などから優れた才能が駆逐排除され、残された者たちは、保守派の言いなりの反省声明やブラックリストに署名して、自由闊達な創造の場を自ら放棄していった。創造的・批判的な創作活動は自己規制されていく。
保守派の革命は成功した。だが、この成功ゆえに、連邦政府の国際問題への対応能力は狭められ、偏ったものになっていった。キューバ危機、ヴェトナム戦争などでの決定的な失策が続くのも、そこに遠い原因があるかもしれない。
ところで、あのウォーターゲイト事件で大統領の座から転げ落ちることになる、リチャード・ニクスンは、「非アメリカ委員会」で活躍した大立て者だった。自由な言論や報道による政策への批判をとことん嫌い抜き弾圧したがる傾向は、ニクスンにはその20年前から明白だったようだ。
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