ローソンでは、ほとんどの住民が、自宅やレストランなどのテレヴィ中継やラディオ中継の放送に目や耳を向けていた。彼らは成り行きを固唾を飲んで見守っていた。
なにしろ、つい先日までルークだと思って親しくしていた若者が、議会のヒアリングに出頭しているのだ。どうなるんだろう、と思って。彼らは、「生還したルーク」が気に入っていた。
メイベルの店にも町長やスタンが詰めかけて、テレヴィを見つめていた。
議会のメッセンジャーとFBIが現れて、若者=「ルーク」をヒアリングの場に引き立てていってしまった。そのときは、議会や世間のレッテル貼りに恐れを抱いて退いてしまった。が、概してあの若者は好印象を残していった。町の活力を取り戻すために献身的に努力していた。
この町に独特の活気を回復していくきっかけをつくったのだ。
だから、住民たちは、若者への処遇が穏便なものになるように祈っていた。
ピーターが、大学サークルへの参加理由が、「盛りがついたから」と答えたときには、多くの人びと、ことに老人たちは「ああ、委員会を侮辱してしまった。処罰が重くなってしまう」と心配した。
だが、ボブだけは、「いいぞ、ピーター。言ってやれ!」と喝采を送っていた。
彼が「世を拗ねる態度」を取っていたのは、復員後のアメリカの雰囲気が好きになれなからだ。命をかけて戦い、自分は右手を失って帰還したが、アメリカの雰囲気は自分が期待したものとは違ったものになっていた。
ボブは、ピーターを見直し始めていた。ルークよりも軟弱なやつだと思っていたが、「偉そうに振る舞う」議会の大立て者たちをキリキリ舞いさせている。小気味がいい。
ところが、ピーターが声明文を読むのをやめて、ルークや町の若者の戦死のことを語り出したときから、住民たちの態度は変わった。ローソンの代弁者としてのピーターを応援し始めていた。
彼らは、ワシントンの政治ゲイムには関心がないし、コミュニズムの封じ込めにも関心がない。というのも、戦後の目覚ましい経済成長から取り残された町の生活とはとんと関係がないからだ。目の前の日々を地道に真剣に贈る人びとにとって、中央政界での政治ショウは、かけ離れすぎていて、現実のものとは思えないからだ。
だが、メディアの報道をつうじて「非アメリカ委員会」の活動やキャンペインのことは伝わってくる。
今、彼らは、ごく普通の若者をヒアリングの場に引きずり出し、政治的キャンペインの「贖罪の山羊」のように押し潰そうとしている。そのことだけは、理解できた。そして、ルークや彼はローソンの戦死者たちから学んだことを盾に戦っている。これが、応援せずにいられようか。
ピーターが言いたいことを言い終えて、顔をあげて昂然と会場から立ち去る姿に、人びとは声援を送った。 なかでも、自宅で父親スタントンとともにテレヴィを観ていたアデルは、身を乗り出し拳を振り上げてピーターを応援していた。
彼は、法律家になった私の最初のクライアントで、しかも、私の助言どおりに、いやそれ以上に素晴らしい戦いを繰り広げている、と感動してのかも。いや、そんな想いをも通り越していたかも。横暴な権力に対して戦う市民としての連帯感を感じていたのかもしれない。