第1章 ヨーロッパ世界経済と諸国家体系の出現
この章の目次
すでにみたように、中世的秩序のもとでは、圧倒的多数の人口の再生産はきわめて局地的な制限の内部で行われていた。ところが、12~13世紀には、農村および都市の集落の共同体的規制や局地的制限を超えて活動する商業資本によって、遠隔地商業のネットワークがヨーロッパ的規模で形成され始めた。
各地の生産は、互いに相手地域からの原料・食糧の供給と、相手地域への製品の販売とを前提とするようになった。特産物の交換である。経済的再生産の構造全体が変容し始め、それは統治システムの変動に結びついていった。
この時期に、長距離貿易の流通過程に入り込んでくる生産物(商品)は、一方では高級聖職者や領主層などの特権的消費階級に向けた奢侈品・兵器などであり、他方では手工業のための原材料(毛織物の原料である羊毛、鉄鉱石、木材など)や都市住民のための食糧(穀物・魚貝類など)や塩などであった。ところが、人口の圧倒的部分は農村(または農村と密着した都市集落)に配置されていた。農村人口つまり農民労働力の再生産は、ほぼ農村共同体の内部で、またはせいぜい近接する小都市の近傍で局地的に完結していた。
他方で、農民が生産し、領主に貢納した剰余生産物は、領主(とその従者たち)によって消費される一部分を除けば、局地的な制限を超えて流通していった。つまり、経済的剰余の社会的流通・循環は、局地的限界を突き破って、遠距離貿易として組織されていった。この流通過程を構成する輸送路、河川、運河、港湾、市場都市という諸制度は、周囲の農村や地方都市を変形していった。
こうして、はじめは「封建的」支配階級の奢侈(軍備も含む)欲求のための商品の取引きにすぎなかった商品流通は、やがて、それぞれの地方(農村・都市)の人口と生産の再生産に不可欠な生産手段や消費手段(原料・生産用具・食糧)の取引きに転換していった。各地の生産の一定部分は現地での消費ではなく、遠く離れた地方の需要を満たすために生産されるようになった。
だが、こうした転換は、従来の生産形態を変革することもあれば、固定化してしまうこともあった。生産者の反抗や不満を押さえ込むために、旧来の支配方法が復活することもあれば、あるいはもっと劣悪なものに変形されてしまうこともあったろう。もちろん、こうした転換を自らの経済的・政治的な地位の向上に結びつけようと奮闘する集団や階級もあったろう。
歴史的に見ると、差別化された――つまり少数の特定の人間しか享受できない――物品を所有することは、身分の差または階級の差を見せつける手段であった。つまり、「近代」以前の社会ではことのほか、奢侈品の保有と消費は、民衆に対して権威や威厳を示す支配者(有力者)の機能であった。それは、彼らの生活慣習や教育によって彼らの意識や欲求のなかに染み込んだであろう。
ということは、支配と従属ないし権威と服従があるところ、必ず何らかの奢侈品の流通経路が存在したということだ。そしてそれは、きわめて収益性の高いビジネスチャンスであった。
とはいえ、それは支配者の恣意や懐具合の変化によって、容易に打撃を受けやすい産業でもあったのも確かだ。このような身分差や階級差を前提とした「贅沢な消費手段」の生産と流通のメカニズムには、利益の総額に限界がある。大衆消費に比べて、確実な利潤を長期にわたって期待することはできない。
しかし、このビジネスにも経験的に獲得したマーケティングや情報活動があっただろう。特権的奢侈財をどこから調達し、どこに販売すれば、利潤が極大化できるかという情報を、誰よりも早く把握し伝達するコミュニケーション手段をつくりだすことだ。それは、遠距離交易商人の血縁関係者や奉公人による手紙のやり取りであったり、都市同盟の通信ネットワークであったりした。
こうした情報伝達の速度は当時の交通輸送手段の技術的限界を超えるものではなかったが、その運営や利用には膨大なコストがかかった。この情報を食糧や衣料などの大衆消費財の流通に利用すれば、巨大な利潤を確保できただろう。
いずれにせよ、旧来の局地的に自立的ないし完結した秩序はやがて、商品流通の拡大によって浸食されていった。人びとは、商品交換を利用して有利に立ち回ろうとした。
有力領主たちの大所領――人口の多い農村をかかえた――では賦役労働(農民の従属)を強化してより大規模に商品生産を行なうという経営スタイルに変わった。領主の力が弱ければ――あるいは人口が希薄であれば――農民に貨幣貢納を認めたり、市場へのアクセスが可能なほどに自立性を手に入れた農民に商人が新たな生産物の生産(これには新種の作物の栽培から前貸制による農閑期の手工業までが含まれる)をもちかけたりしただろう。
さらに、没落した下級領主や騎士の所領を蓄えた貨幣資本によって買い取った都市商人のうち、商人的発想を失わなかった者たちは、農民に前貸しすることと引き換えに換金作物(穀物や羊毛、ワイン)を買い取る算段をしただろう。
こうして、生産物の一定部分ははじめから商品交換をめざして生産されるようになる。これらは、遠距離交易のための商品生産であった。だが、商品の交換価格は商人の背後に広がる世界のリズムによって決定された。
ゆえに同時に、農民や領主の生活水準は、自分の手が遠くおよばない遠隔地市場での価格変動によって弄ばれるようになった。やがて、それぞれのなかに成功者と没落者が出始めた。農村共同体の秩序が緩むにしたがって、社会的ダーウィニズムが作用する場面は広がっただろう。
だが、商品経済の浸透は「逆説的な帰結」をもたらした。13世紀の北西ヨーロッパ――イングランド南東部とフランス北東部――では、いち早く先進的な生産技術を取り入れた所領をもつ大修道院や上級領主は、商品として販売する剰余農産物をより多く農民から収取するために、貨幣地代や現物地代を賦役地代に転換しようとした。それは領主経営が商品貨幣経済に組み込まれればこその反応であった。
このような大領主層の試みに対して、農民は逃亡や局地的な組織的抵抗、さらには広範な武装蜂起によって対抗した。広範化した農民抵抗・蜂起は、個別的領主による局地的な支配体制ではもはや封じ込めることはできないものになった。
秩序維持のためには個々の地方領主の統治装置ではあまりにも不充分になったことから、有力領主層(君侯)による権力集中が避けられなくなった。有力な君侯権力が弱小領主層を吸収していく。それは君主制領域国家の形成への動きの始まりだった。
他方で、人口密度や土地の肥沃度が低い地方――ネーデルラントや南フランス・地中海沿岸など――あるいは小規模な所領が多い地方では、貨幣地代への転換が進んでいった。近傍都市での販売をめざす自営農民による園芸農業が発達することもあれば、分益小作制が普及した地方もある。
領主層が農民層の権利を切り縮めその土地を収奪して直営農地を拡大して遠距離貿易向けに――利潤稼得のために換金作物を生産する――農業を経営する仕組みを、ウォーラーステインは「資本主義的農業」「農業資本主義」と呼んでいる。したがって、このような領主たちは資本家的農業企業家(農業資本家階級)ということになる〔cf. Wallerstein①〕。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成
第3節
ネーデルラントの商業資本と国家
――経済的・政治的凝集とヘゲモニー