リアリズムとは、創作・創造活動での方法論・思想です。リアリティを求める手法ですが、「事実」をただそのまま――つまり、分析や構成なしに――写し取るだけの手法ではありません。歴史や社会の「リアリティ」を提示し、構築してみせる洗練された技術と思想の体系・集積なのです。
目の前にある「事実」をただそのまま写し取るだけでは、リアリズムではありません。「リアリズム」とあえて名づけられるこの方法には、私たちの目の前に展開する諸事象・現象をただそのまま写し取り表現しても、現実の本体=リアリティをとらえることにはならない、という前提があります。
現実の外面・表層を切り破り、その外皮=仮象を剥ぎ取り、その背後・内部にある事象の本体・内容(実体・本質)を析出することが不可欠なのです。訴えたいテーマのために、無数の対象のなかからしかるべき素材・材料を選択・選別し、しかるべき順序や構成方法(味つけ)によって提示する方法が必要なのです。
そこには、現象の表面に現れる多くの事柄・要因・要素を分析(分解)し、比較し、関連づけて、それらの奥にある内的連関(内なる文脈)や傾向を抽出する、という方法論があるのです。
何が本質かという判断や事物の比較や関連づけにおいては、さまざまな要素・要因の価値序列のなかでの位置とか整序・体系化の仕方こそが問題になるのですから、そこでは、認識主体(ここでは映像の作り手)の側の価値観が能動的にはたらくことになります。つまりは、倫理観や価値観、イデオロギー、政治的立場が問題になるのです。
この映画におけるリアリズムは、リアリズムの頭に「社会主義的」とか「ソヴィエト的」とかいう形容詞がつけられたものでもあります。西側諸国の映画では描こうとしなかった側面を描き出そうという意識もあるでしょう。
戦争映像あるいは戦史映画というものに引きつけて考えると、戦争という複合的な現象(無数のできごとの巨大な集積)のなかでどの部分・要素をどのように切り取り描き出すか、事実や事柄をどのように関連づけ、どのように文脈を描き出すか、その立場の問題となります。
戦場(地形や光景)、兵器や兵員の配置状況、戦況の描き方、組織や指揮系統、作戦の展開の描き方、軍の運動……これらをどう描き関連づけるか、どこを強調するか、ということになります。
もとより、クルスクの戦いからの戦況だから、ソ連側の反転攻勢とナチズムに対する勝利への動きが描かれます。だが、その勝利への過程には、多くの悲惨で苦々しい破壊や悲劇が織り込まれています。むしろ、私は悲惨な戦場の現実の描き方にこそ惹きつけられます。映像がそう仕向けるのです。
「ヨーロッパの解放」シリーズは、映像作品全体が茫洋としていて、まとまったイメイジがつかみにくいのです。そのように作られているのです。
確かにソ連国家の支配的イデオロギーの表出が随所に見られます。だが、それとても、いくつもの断片に分解されて分散されているのです。そして、その国家イデオロギーに対抗する価値観さえ盛り込まれているのです。過酷な前線の兵士に過酷な任務を割り当て指揮する軍と共産党の組織の酷薄さ、戦場では個人は個性を奪われた消耗品として消尽されるという、圧倒的な事実の重み。そこには、社会主義の理想のかけらもないように見えます。いや、それを否定しているようにさえ見えるのです。
映画の制作陣は、国家装置(政府機関や共産党)の側の検閲を配慮して、全体をとらえきれないような茫洋とした構成に、意図的に仕立て上げたのかもしれません。