ヨーロッパの解放 目次
リアリズムとプロパガンダ
映画の見どころと分析視角
ソ連型リアリズム
リアリズムとは何か
東部戦線の特異性について
西部戦線から東部戦線へ
ナチズムを甘く見たソ連
ドイツ軍の破竹の侵攻
スターリングラードの死闘
クルスクの戦闘
クルスク戦の実相 @
クルスク戦の実相 A
ドゥニエプル渡河作戦
驚くべき奇策
河畔の激戦
ドゥニエプル渡河の戦略的な意味
パグラチオン作戦
罠にはまったヒトラー
戦車の歴史の1断面
T-34の優秀性
過剰適応の失敗 T-54/55、T-62
乗員の生存率を最優先とする設計思想
T-34のデビュー
T-10/JS型戦車について
「ヨーロッパの解放」以後の戦争映画
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史上最大の作戦
パリは燃えているか

「ヨーロッパの解放」以後の戦争映画

  さてこの「ヨーロッパの解放」シリーズは、クルスクの草原で、ドゥニエプルの流域で、ミンスクの広野で戦場や戦闘に動員された人びとの恐怖とか悲惨さを淡々と、これでもか、これでもかと描き続けます。ソ連側かドイツ側かは大した差はありません。人は銃や砲弾と同じで、消耗され消滅していく軍事物資のひとつでしかないようです。
  その意味では、スターリンの指揮下でジューコフをはじめとするスタフカの戦略と戦術、つまり作戦の全体が兵士やパルティザン、近隣の住民たちに、どれほど大きな犠牲と負担を強いたのかを明白に描き出す映像でもあるのです。戦争が社会にどれほどの破壊と疲弊をもたらすかを、正直に描いているのです。
  つまり、解放戦争に勝利したソ連指導部に対する批判や告発の意味さえ持っているとさえ言えます。

  とはいえ、第2次世界戦争以降の戦争映画の歴史を大雑把に見てみると、この「ヨーロッパの解放」が西側で上映された頃を境界にして、とりわけアメリカ(ハリウッド)の戦争映画の制作スタンス、視点や方法論が転換したということが言えます。
  それが、このシリーズ(あるいはソ連の戦争映画)がもたらした効果なのかどうかはわかりません。けれども、グリーンベレーとかデルタフォースを宣伝する政府御用達のようなプロパガンダ映画を除くと、明らかにリアリズムによる戦争(戦場)映像表現が優越するようになっていったことは間違いないでしょう。
  その点、ブリテン人がつくる――ハリウッド資本の支配下でも――映画は事実を淡々と実証的に描き続ける手法が優越してきた。

  その最大の原因となったのは、やはりヴェトナム戦争の影響だったように思われます。


  この「汚れた戦争」への批判や幻滅によって、もはや戦争のありようを「英雄叙事詩」的には描き出すことはできなくなってしまったのです。
  ハリウッド映画「カジュアリティーズ」「地獄の黙示録」「エアアメリカ」などを見ると、むしろ戦争という政府=国家の行為の「おぞましさ」、そして、それに巻き込まれていく人びとの精神の崩壊、さらには利権と腐食にまみれた軍組織の「うさんくささ」がリアリズムの手法で描き出されるようになりました。
  西側の映画制作者たちは、「ヨーロッパの解放」が提起した方法論上の問題を感じ取ったに違いないでしょう。その意味では、ソ連の、いやソ連というレジーム下で映像制作を担った人びとのメッセイジは世界を変えたと言えるかもしれません。
  レジームとしてのソ連ではなく、その鎧の重みの下で呻吟しながら映画を作り続けた人びとの想いが、戦争映画の方法を転換させるひとつの要因となったわけです。

  そして、21世紀の戦争映画・・・たとえば、『スターリングラード(Enemy at the Gates, 2001』や「『プライヴェイト・ライアン(ライアン二等兵)』『グリーンゾーン』、そして『硫黄島』シリーズを観てください。ここには、主人公たちはいるが、英雄はいません。戦争の破壊力と殺戮の圧倒的な凄まじさ、恐怖がリアルに描かれるのです。
  そして、前線の軍の作戦と兵士たちの生命は、本国政府――指導者たちは快適なオフィスでゲイムとしての政治に没頭している――の政治上の駆け引きによって、右往左往させられる。クレムリンや大統領府の都合が、前線の多数の兵士の生命を弄んでいるとさえ言える現実を、鋭く突いています(におわせます)。
  あるいは、BBCのテレヴィドラマ『刑事フォイル』シリーズは、戦争の不合理や不条理を「国内の市民社会」から冷徹に描いていきます。

  それに比べて、湾岸戦争やイラク戦争の「従軍報道」のあまりに一面的なテレヴィ映像は、「現実」の一部を映像化しているにもかかわらず、何と虚偽に満ちたものだったことか。要するに政府と軍の都合によって選別され編集・検閲された報道が、いかに社会現象としての戦争と戦場の真実を捻じ曲げていたか、いや世論誘導の目的に沿ってメイキングされたものであったか。
  ジャーナリズムの「戦争報道」の方が、プロパガンダ臭さがずっと鼻につくではありませんか!
  そこでは、M1A1エイブラムズ戦車隊に随行するガスタンカー車の映像は決して報道されません。それがアメリカ軍の「アキレス腱」――これを敵側に狙われたら弱い――であり、またこの70トン以上もある超高性能ハイテク戦車がいかに資源を浪費する兵器であるかを如実に示す証拠になるからでしょうか。兵站補給体系を構築することを考えると、圧倒的に優位を予想できる戦場以外には配備派遣できないシロモノかもしれない兵器なのです。
  中東イラクやアフガニスタンでの劣化ウラン弾の使用も戦争映像としては報道されませんでした。終戦後に検証映像として報道され、深刻な批判や疑念を呼び起こしました。
  いまや、私たちは、ジャーナリズムの戦争報道よりも、真摯につくられたエンターテインメント作品やフィクションから、むしろより多く「世界のリアルな現実」への手がかりを与えられるようになっているようです。

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