このように見れば、1943年春から秋までの東部戦線の動きは、ドイツ軍が状況――戦場の地理的特質や気候風土、敵の戦力配置、兵器性能とその用法など――を見失い、ソ連軍の防衛網に絡め取られ、兵站補給体系を切り崩されていく過程であって、もはや挽回や後戻りが決定的に不可能になっていく局面でした。
ウクライナ南部からアゾフ海(クリミア東方)にかけて、枢軸同盟の軍事的優越が破れる地帯が出現していきました。
そのひとつの極点、そしてドイツ軍の東部戦線の完全な崩壊への過程の起点が、43年7〜8月のクルスクの戦い(戦闘)でした。この戦いは大規模な戦車戦で有名ですが、それはこの戦闘の1側面・位相にすぎなかったのです。
クルスクの戦闘は、まさに歩兵隊、砲兵隊、戦車隊、そして航空戦力などのあらゆる地上戦力のぶつかり合いだったのです。そして両軍ともに、歩兵隊や戦車隊が展開する最前線には、後方の砲兵部隊によって間断なく砲弾が打ち込まれ、弾幕が張られました。つまりは、味方の砲撃によって殺される危険性に満ちた、悲惨な戦場だったのです。
兵士の人権なんぞはまったく無視された「殺戮の広野」でした。西側の連合諸国の戦争政策も同じように遷移しました。後方の陣地の砲列が、味方の兵士たちが展開する最前線に向かって砲撃を繰り返す――「弾幕を張る」という言い方となった――という非人間的な戦法がその時代の作戦の「常識」になってしまったのです。
そして、映画ではソ連の戦車T-34の群が西に向かって突進していきます。
当時、14歳の戦車プラモおたく少年だった私たちは、大戦車戦のシーンの虜になりました――その戦闘の歴史的な意味も知らず。戦場の悲惨さに想いが向くようになったのは、大学生になってからのことでした。その頃、ヴィデオはなかったので、遠い少年時代の記憶を辿ってのものなのですが、それくらいに印象がすごかったのです。
ソ連の国家装置としての映画制作陣は、数百両にもおよぶ実物の戦車を投入して、映画史上で最初の大平原での戦車戦スペクタクルを演出しました。それまでは、戦史もの映画(ことにハリウッド映画)では戦車は「単なる添え物」にすぎませんでした。ところが『ヨーロッパの解放』では、国威を賭けた映画だったため、西側の映画政策ではまったく不可能な戦車や大砲などの大規模な物量投入がおこなわれました。
その意味では、この映画作品群は映画史上に画期をもたらしたと言えます。これ以後、西側の戦史映画の道具立てはすっかり転換してしまうことになりました。それまでアメリカの第2次世界戦争の戦史映画では、アメリカ軍の制式戦車をドイツ軍のティーガー戦車やパンター戦車に見立てて撮影していましたが、そういう手法はもはや映画のリアリティを著しく毀損する――「噴飯もの」になってしまいました。