映画の物語については以上にして、旧ソ連レジームの戦争についての考え方、兵器に関する設計思想にも思いを馳せてみましょう。そこには、社会と人間に対する基本思想や軍をはじめとする社会組織の編成原理や運営についての思想が読み取れるかもしれません。
ここで東部戦線の戦史を離れて、ソ連の戦車開発の歴史の1側面について見ておきます。ここでは、戦車開発の基本思想・設計思想が、その国家と社会の組織状態や市民の生活環境を反映し、相互に影響するという視点で考察します。
分析の根底にある発想は、つまりはこうです。
戦争とは、国家組織が敵戦力の破壊のために戦場とその後方の兵站体系に兵員などの人的資源をはじめとする資源を投入する政策です。そのなかでも、とりわけ兵員となるその国家の市民諸個人がどのような戦車に搭乗するかということは、国家と軍において市民としての兵士がどのように扱われ、彼らの市民的権利や地位、身体生命の安全性や個人としての尊厳がどのように評価されているかを示す有力な指標の1つになっているということです。
してみれば、ここでは装甲戦車を対象としているのですが、兵器のつくりや設計思想――さらに兵站補給線の構築様式――には、特定の国家内における市民・人間に対するレジーム側の思想や態度が如実に表れているということになります。
軍事技術の歴史において、T-34戦車は最高の傑作の1つだと評価されています。社会科学としての戦史では、実戦での効果(戦果)という点では、ドイツ軍のティーガーやパンターをはるかに凌ぐ評価を受けているのです。
その評価の土台となっているのが、一貫した流れ作業ラインによる大量生産システムによって製造されたこと。すなわち、シンプルな設計で高い攻撃性能、被弾性能を達成し、戦場に大量投入され、大きな成果をあげたということです。限られた資源と時間を投入して、より多数の戦車が製造され、戦場に投入され、量で敵軍を圧倒しました。
T-34(76型と85型を含めて)は、戦争中から1950年代にかけておよそ4万台が製造されました。なかでも、T-34-85は、ティーガーの正面装甲を――垂直に近い角度で命中すれば――撃ち抜く破壊力を備えていました。側面や背面からなら容易に装甲を貫通しました。ただし、戦場でそういう有利な状況はめったに生まれなかったのですが。
とはいえ、最初、この戦車を捕獲したドイツ軍の専門家や戦車兵たちは、きわめて単純なつくりと操縦装置を見て、スラヴ人がいかにも作りそうな粗雑な戦車だと言って嘲笑したそうです。ところが、実戦での活躍を見て肝を冷やしました。
運動性能は高く、傾斜装甲の持つ被弾性能の優秀性、そして何よりも数量で圧倒して、ドイツ軍の戦車の進撃を食い止めるその効果に。
単純化した仕組みだからライン化した作業で短時間に大量に製造できる。そして、操縦操作がシンプルだから、戦車兵の訓練期間を著しく短縮できる。つまりは、短期間に多数の戦車兵が前線に投入されてくるということです。
この点、ドイツ軍の戦車は素晴らしく精巧な技術によって緻密かつ複雑に生産されました。複雑な仕組みだから、製造に手間がかかると同時に、操縦操作もまた複雑で、高度な訓練(知識と技能)が必要になります。したがって、戦車兵の育成には時間と手間、そして金がかかることになります。
ドイツでは、戦車兵はいわばテクノクラートで、航空兵に次ぐ高い地位を得ていました。それだけ高度な知性・知能や熟練が必要であって、育成にそれだけ資源が投入されているのです。いきおい軍組織での地位も、それゆえプライドも高くなります。ほかの兵種との取替えや連携がそれだけ難しくなるのです。
ということは、軍にとって簡単に死んでもらっては困る貴重な人材資源です。そのために、安全性や被弾性能(装甲の性能)からみて戦車の性能をさらに高め、生存率や快適性(苦痛の縮減)を確保しなければならないのです。
ところが、ソ連側では、戦車兵は比較的簡単な訓練で大量に育成できるから、戦車兵の地位と生命の価値はそれだけ低くなってしまいました。その代わり、戦車兵の補充とか、ほかの兵種との取替えや連携はかなり容易にできるのです。
その成功体験は、戦車の内部の構造の快適性(不快性の除去)とかより精密な操作への、設計思想の質的な転換への刺激がきわめて乏しくなることになります。
かくして、ソ連では、戦車の設計思想では、搭乗兵員の安全性や生存率、快適性(不快さの縮減)はつねに後回しにされてきました。
そのなかでは、T-34-85は、車高がある程度高く砲塔が比較的に大きいので、むしろ戦車兵にとっては個人としての尊厳やホスピタリティが保たれていました。