『ヨーロッパの解放』シリーズ映像は続いて、クルスクの南方、ドゥニエプル下流域の最前線――1943年の夏の終わりから秋の終わりにかけて――を描き出します。
ウクライナ平原では、毎年初夏から秋にかけて雪解け水と降雨によってドゥニエプルの流水量は増大して、――高低差のない大平原を分流・蛇行する――流域にはいくつもの広大な湿地帯が出現します。
1941年秋にこの地を席巻したドイツ軍は、43年夏になると、水没しない台地の大半の地点に砲兵陣地や監視設備を設置していました。アゼルバイジャンやスターリングラードから撤退するドイツ軍の退路を確保し、追撃するソ連軍をまさに水際で食い止め、打撃を与えるためでした。
ことに、河畔の台地には厳重な監視態勢が敷かれていて、はるか後方(おそらく20km以上後方)の長距離・大口径の自軍砲兵陣地に対して、ソ連軍の進撃を察知するやその位置を正確に把握して連絡し、こうして、追撃してくるはずのソ連軍に遠距離から激しい砲撃を加えて粉砕するはずでした。
敗走するドイツ軍を追うソ連軍は、ドゥニエプル河畔まで迫る森林地帯から進撃して河岸をたどり、湿原葦原に覆われて視界の悪い、それゆえまた足場の悪い地点に貧弱な前線基地を構築していました。湿地帯では塹壕の構築もできなかったのです。
前線視察に訪れたソ連軍参謀本部のジューコフ将軍は、厳しい冬が来る前に渡河を決行しなければならなかったのですが、渡河の方策を見出せずにいました。
ところが、近隣住民からなる解放軍(ゲリラ=パルティザン)の兵士たちが、樹木の細い枝を「かんじき」(スノウシュー)のように組んでつくった道具を使って湿地帯を巧みに移動する場面を目にしました。スタッフを集めて検討すると、この一帯で森林から樹木を切り出して大きな「かんじき」=筏をつくり、これを多数組み合わせる作戦を考え出しました。戦車やトラックなどを運搬できるように、夥しい数の筏を連結した「浮き橋」を構築する作戦を思いついたのです。
こうして、奇想天外の大河川の渡渉作戦が開始されることになりました。
しかし、平坦な湿原では浮き橋=筏の敷設は容易に発見されそうです。そこで、離れた地点からの渡河を敢行しようとしているとドイツ側に思わせるような陽動作戦を展開して、ドイツ軍の注意を逸らしておいて、一方で森林から大量の木材・樹木を伐採・集積して筏(浮き橋の部品)を大量生産し、夜間に敷設・連結し始めて、未明から渡河作戦を決行することにしました。
ソ連軍は未明から、虚偽の渡河地点を確保するためのフェイント攻撃と後方からの大規模な援護砲撃を開始しました。見せかけの進軍コースを偽装するために、これまた見せかけの大がかりな援護弾幕を張り、ドゥニエプル川を防御するドイツ軍の主力を引きつけようとしました。
一方、そこから数十キロメートル離れた地点では、すでに夜の闇に紛れて、浮き橋を構築していました。森から伐り出した木材でつくった筏を連結し、さらにその上に木材や枝葉を並べて分厚く均して補強し、戦車や大砲、キャタピラつきトラックなどが通行できるようにしていきました。浮橋の列は何十箇所にもなりました。