ソ連軍は、ミンスクを北周りの進撃路と南回りの進撃路によって攻囲して、ドイツの中央軍を分厚い包囲網のなかに絡め取ろうとしていました。
1944年初夏までにスモンレンスクを攻略回復して、ヴィテブスクを経由して北周りにミンスクをめざす。その場合、ドイツ軍の布陣の薄い地点を突破する。一方、オリョールおよびクルスク方面から南回りにミンスクをめざす。
そういう作戦構想でした。
攻撃の序曲は、ベラルーシ社会主義共和国の解放をめざすパルティザンの活動でした。パルティザンは、ソ連共産党軍政部の指揮下で、各地で一斉蜂起、サボタージュ(破壊活動)を展開しました。ドイツ軍の補給線の幹線をなしていた鉄道網はいたるところで爆破・寸断されました。ドイツ軍が支配していた道路や橋も破壊されていきました。
ソ連軍は作戦のために、兵員170万(戦闘要員と支援要員の総計)、大砲2万4000門、戦車4000台(突撃自走砲含む)、航空機6300を動員することにしていました。対するドイツ軍は、兵員80万、大砲9000門、戦車550台(突撃砲含む)、航空機840。ドイツ軍の戦力は圧倒的に劣勢でした。
というのは、ヒトラーと総参謀本部は、ソ連軍の多方面の展開の偽装に完全に幻惑され、ベラルーシから砲兵隊の3分の1、戦車の9割と突撃自走砲の半分、航空機の相当部分を南ウクライナ・黒海方面に振り向けてしまったからです。
ソ連軍の偽装作戦は成功して、ベラルーシ全体のドイツ軍の配備はかなり手薄になりました。ドイツ軍の主力はミンスク近辺に手厚く配備されていました。ソ連軍は、それを遠巻きに分厚い包囲網を敷いていったのです。
とはいえ、ソ連軍の今局面での戦略的目標は、ミンスク自体よりもさらに西方のワルシャワ、ブレスラウそしてバルト海沿岸のケーニヒスベルク(カリーニングラード)でした。これらの都市を攻略すれば、ベルリンへの道の門は確保されたようなものです。
1944年6月末、T-34戦車隊に先導されたソ連軍歩兵部隊が、東側(北回りの軍団)と西側(南回り軍団)の2つの方向からシヴィスワチ河にかかる橋に達しました。包囲網の円環はこれで完全に閉じられました。
映画では、T-34の戦車隊が橋の両側から渡り始めて中央で出会うことになりました。
ソ連側の発表では、このとき攻囲され捕虜になったドイツ軍兵員は50万にのぼったといいます。これによって、ドイツ軍のベラルーシ戦線は崩壊してしまいました。
ミンスク方面の中央軍集団が壊滅したことによって、頑強な防御で持ちこたえていたドイツ北方軍集団は、リトゥアニア、エストニア、ラトビアから戦力を割いて、南側=ベラルーシ方面からのソ連軍の攻撃に備えなければなりませんでした。そのため、バルト海東部の戦線もしだいに穴だらけになっていきました。
ミンスクでの赤軍によるドイツ軍中央軍の大攻囲撃滅は、東部戦線のドイツ軍全体の士気を大きく挫いたのです。大きな穴=力の空白によって、周囲の軍事力が弱体化し、東部戦線はまさにドミノ倒しのように崩れていくことになります。
まさに、「ベルリンへの道」の関門は開かれたのです。このあとの戦況はおおよそ次のとおりです。
〈北方・バルト海戦線〉
1944年9月、エストニア解放(ソ連軍の占領支配)
10月、ラトビアからリトゥアニア解放
1945年4月、ソ連軍ケーニヒスベルク攻略
5月、ダンツィヒ(グダニスク)攻略、オーデル河渡河⇒ベルリン包囲への起点確保
〈ベラルーシ・ポーランド戦線〉
1944年12月、ソ連軍ベラルーシから国境を突破してポーランド侵入
1945年1月、ワルシャワ攻略、ブレスラウ攻略
4月、オーデル河渡河⇒ベルリン攻撃へ
〈ウクライナ・ボヘミア戦線〉
1944年7月、レンベルク攻略 1945年1月、クラカウ攻略、プラーハ攻略
〈南方・バルカン戦線〉
1944年8月、オデッサ攻略、ルーマニア侵入、ブカレスト攻略
9月、ブルガリア侵入
12月、ハンガリア侵入 1945年1月、ブタペスト攻略
4月、ヴィーン解放