ヨーロッパの解放 目次
リアリズムとプロパガンダ
映画の見どころと分析視角
ソ連型リアリズム
リアリズムとは何か
東部戦線の特異性について
西部戦線から東部戦線へ
ナチズムを甘く見たソ連
ドイツ軍の破竹の侵攻
スターリングラードの死闘
クルスクの戦闘
クルスク戦の実相 @
クルスク戦の実相 A
ドゥニエプル渡河作戦
驚くべき奇策
河畔の激戦
ドゥニエプル渡河の戦略的な意味
パグラチオン作戦
罠にはまったヒトラー
戦車の歴史の1断面
T-34の優秀性
過剰適応の失敗 T-54/55、T-62
乗員の生存率を最優先とする設計思想
T-34のデビュー
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「ヨーロッパの解放」以後の戦争映画
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過剰適応の失敗 T-54/55、T-62


T-55A

  その後、ソ連の戦車設計思想は、「数量で敵を圧倒する」という成功体験に過剰適応して、配備される戦場への適応性、どのような戦略体系や戦術方法のなかに位置づけるかという問題には無頓着だったように見えます。
  多くの戦史家・軍事史家のあいだでは、リェーニンの哲学理論のなかに「量から質への転化」――もともとは、フリードリッヒ・エンゲルスが『E.デューリング氏と哲学の終焉』で提起した視点――の命題が独り歩きして、「量を拡大すれば質的な強みになる」という単純な発想が兵器生産にもおよんだ、と見られています。

  「数量で圧倒」という視点が前面に出たため、搭乗する戦車兵の健康保持や生存率への配慮が一貫して欠落することになりました。操縦し易さではすぐれていたようですが、内部の快適性――不快性や狭隘性、苦痛の除去――主砲装填・照準操作の性能、命中率、排煙装置などついては、等閑視されていました。戦車兵の意見や要望を聴き取ることもなかったようです。
  こうした設計思想が生み出したT-54/55は低く丸い車高形状で被弾性能はまあまあいいけれども、車内空間は狭くて、戦車兵には大きな苦痛を与え、しかも主砲の照準精度は低く、装填装置も鈍重だった。照準精度が低い、発射準備時間が長い、排煙装置の機能が悪いという主砲を、狭くて不快な車内で重いストレスを受ける戦車兵が扱うのだから、実戦訓練での命中率は悲惨なものになりました。
  なかんづく、低い車体と小さな砲塔から必然化した、被弾しても弾薬が誘爆しないように砲弾を分離格納しながら装填しやすくする装備が欠如している欠陥は致命的です。
  つまり戦車の攻撃性能と防御性能を最大化して、その内部の兵員の身体生命を最大限守るという発想がないのです。兵士は安価な消耗品にすぎないというわけです。戦争では、兵士の市民権・生存権は後回しになっているということです。

  戦後開発されたT54/55は、とにかく数量で圧倒するという思想で開発された、ことに1955年にワルシャワ条約同盟が結成されてから、東欧諸国全域に配備するため大量生産されました。その数、6万台以上といわれています。戦車史上、最も大量に生産された戦車です。

  ところが、1960年代にアラブ諸国とイスラエルとの戦争・戦闘で実戦投入されることになりました。結果は悲惨なものでした。まさに「鉄の棺桶」「鉄の墓標」となったということです。
  T-62もまた同じ設計思想の展開線上で、改良が加えられて開発されたが、大きな進歩は達成できませんでした。静止状態での静止目標に対する砲撃試験では、主砲射撃の命中精度は10%未満だといいます。それどころか、実戦ではT−54/55、T−62の命中率は3%未満ではないかと見られています。ほとんど鉄屑です。

  T−54/55戦車隊が大量に展開したのは、1968年「プラハの春」でチェコ市民運動の弾圧・鎮圧のため、ソ連・ワルシャワ同盟軍が出動したときでした。しかし、非武装・無抵抗の市民たちや建物に向けてわずかに主砲を威嚇射撃した程度で、ほとんどは砲塔に搭載されている機銃の射撃だったようです。戦車戦への投入はソ連軍としてはありませんでした。
  使い方としては、市街の主要道路に戦車隊を大量投入、展開して威嚇するというものでした。重武装した敵軍と交戦するというよりも、数量展開による威嚇効果を狙ったという程度の戦車だったのかもしれません。実戦向きではないのです。

  この型とT62型のソ連戦車は、ソ連が支援するアラブ連合側の主力として、1967年の第3次中東戦争に投入されました。イスラエルがブリテンから購入した4台を補修して実戦配備したわずか2台のセンチュリオン戦車に対して、アラブ連合側は200台配備の戦車団(ソ連製)――ただし、整備不良や戦車兵の訓練不足で前線にまで到達したのはずっと少なかったらしい。
  ところが、T-62(若干のT-54/55が配備されてと見られる)は、イスラエル側が設定した「防衛線」を越える前に、戦車隊の大半がイスラエル軍のわずか2台のセンチュリオンによって撃破・大破されてしまったのです。
  このとき、ブリテン陸軍では後継の制式戦車チーフテンが主力となっていて、センチュリオンは主力から外れていたため、イスラエルに提供されたのです。ということで、チーフテンよりも格段に劣る性能のセンチュリオンによって簡単に撃破されてしまったT-62の実戦性能の評価は暴落しました。

  結局、T-34-85型を超える性能の戦車は、少なくとも1970年代までは生産できなかったわけです。それだけ、核技術や航空宇宙産業は別として、閉鎖的なソ連の経済や工業技術が停滞・劣化していたともいえます。
  これは、ソ連陸軍では、1970年までは戦車兵の人権や個人としての尊厳、生命などのついては、ほとんど何も考慮されてこなかったことを意味するでしょう。一般の市民も人権や尊厳が恐ろしく抑圧されていたのですが、それは兵士の扱いにもおよんでいたわけです。戦車兵の作業能率や安全・生存率への配慮はほぼなかったのです。

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