ソ連とバルカン・黒海方面、中央アジアなどに対するナチスドイツの分厚い侵攻準備は着々と進んでいました。
1940年11月には、ハンガリーとルーマニアが枢軸同盟に加盟。ブルガリアは翌年3月に加盟。ユーゴスラヴィア王国は枢軸同盟に加入したものの反王政、反ナチスの民衆蜂起によって政権が転覆され、新たに樹立された共和政権はナチスドイツの侵略への抵抗姿勢を表明しました。そのため、1941年4月、ドイツ軍のユーゴスラヴィア攻撃が始まりました。
ドイツはユーゴでの長く続いてきた根深い民族対立・分裂を利用して、反セルヴィア感情を煽ってクロアティアを「独立」させ、その宗主国=盟主におさまりました。外観上クロアティアにとっては、民族的な従属状態からの独立でしたが、ナチズムへの従属を結果しました。かつての過酷な支配への報復が始まりました。憎悪と敵対の増幅循環が深刻化していきました。
アルバニアはすでに39年4月に、イタリアのムッソリーニ政権によって征服されていました。こうして、枢軸同盟によって攻囲され、ドイツ軍に蹂躙されたユーゴは、第2次世界戦争でも最も過酷で悲惨な戦場となったのです。
ソ連共産党の束縛を受けていたユーゴ共産党は、はじめのうちナチスドイツへの民衆の抵抗や蜂起に反対し、同胞の残忍な殺戮を静観していました。
1941年6月、ヒトラーはソ連攻撃を指令しました。
占領したポーランド北部からバルト海東部一帯にドイツ軍が押し寄せていきました。41年7月中にリトゥアニアとラトヴィアが征服されました。41年6月、枢軸同盟のフィンランドを経由してドイツ軍が対岸のソ連領に攻め込みました。9月にはエストニアが占領されました。この年の冬、レニングラードはドイツ軍に攻囲され、恐ろしく悲惨で過酷な運命に直面します。
ウクライナ方面では、南スラヴの広大な平原をドイツの戦車団が疾駆していきました。時速40km以上の高速で走る多数の戦車隊は「面状の軍事支配地拡大」のために投入されました。戦車隊を盾にして、あるいは並行して何十もの歩兵師団(方面軍)が占領地を拡大していきました。
41年6月にはベラルーシのミンスク、スモレンスクを攻略、9月にはウクライナのキエフを占領。10月にはハルィコフに迫りました。
ソ連への侵攻は、枢軸同盟の勢力圏に取り込まれたバルカン半島・南ヨーロッパ(ハンガリア、ルーマニア、ブルガリア)からも仕かけられました。10月から11月にかけては、黒海北西岸一帯のオデッサとクリミア半島が制圧されました。
ドイツ軍は、ロシアの心臓部(レニングラードやモスクワ方面)だけでなく、最重要の戦略物資、石油資源の豊富なカスピ海・中央アジア方面への軍事的支配の拡大をめざしていたのです。
1942年初夏にはドイツ軍はカフカーズ地方に侵入。8月にはスターリングラードに迫りました。南部では、カスピ海西岸地帯、アゼルバイジャンがドイツ軍の勢力下に取り込まれました。