1943年の夏、ソ連軍司令部は、冬季の本格的な到来前にウクライナ地方の中心都市キエフ(当時はドゥニエプルの西岸の都市)の奪回を目標にしていました。その意味では、クルスクの確保、ハルィコフの奪回確保はきわめて大きな意義を持っていました。
キエフ奪回によって、ウクライナの解放の大半はなし遂げられたことになります。
ウクライナを奪回すれば、そこから北に向かってはベラルーシやバルト海、ポーランド方面への進撃拠点となり、さらに西に向かってはシュレージエン、ベルリンへの追撃経路の起点を確保することになります。
同時に、スターリンと参謀本部は、ドゥニエプル下流・河口付近とクリミアの奪回をも目標にしていました。これは、キエフへ南方から進撃するルートの確保という意味もあったのですが、むしろそれより大きな重要性を持つのは、黒海沿岸を制圧すれば、ブルガリア、ハンガリア、ルーマニアなどのバルカン半島への進撃ルートの入り口を押さえることになることです。
バルカン半島から黒海沿岸、そして地中海東部は、この大戦とその後の地域ヘゲモニーをめぐる戦略的力関係にとって、大きな意味を持つからです。中東の産油地帯、地球街東部への回廊なのですから。
もともとこの地域――「地域」はヨーロッパの地政学では国家を超えた地理的範囲や複数の国境にまたがる範囲を意味する――は、1920年ごろまで世界のヘゲモニーを掌握していたブリテン帝国の最も重要な(大西洋での優越をアメリカに奪われたから、最後に残された)戦略的要衝でした。カスピ海方面やイラン、中東の石油産出地帯への権益をカヴァーする枢要な防衛ラインや連絡ルートが保持されなければならなかったということです。
ところが、南ヨーロッパ・バルカン半島の諸国、諸民族は、遥か昔から分裂敵対し抗争を繰り返してきたうえに、西ヨーロッパ列強の支配を受け権益闘争のあおりを受けて、この分裂抗争が増幅されていました。ことにブリテンの後押しを受けていた政権から疎外され押圧・抑圧されている集団や民族は、ブリテンの権力に対しては強い反感や敵意を抱いていました。
だから、セルビア人(民族)と敵対していたクロアティア人(民族)は、セルビアの支配とその背後にあるブリテンの権力から独立するために、ナチスドイツに加担したのです。北アフリカでも、エジプト独立運動の指導者ナセルがナチス党に加盟したのは、ブリテンの植民地支配からの民族独立をめざしたからでした。
ナチスをめぐる国際関係には、複雑な事情が絡みついているのです。それゆえ、第2次世界戦争の基本構造を「ファシズム対民主主義」という枠組みでとらえる方法には大いなる虚偽が含まれていることになります。
ナチスドイツは、ブリテンの勢力圏のこの亀裂に楔を打ち込み、それまで虐げられていた諸民族を懐柔して枢軸同盟に引き込み、ブリテン優位の地域秩序を打ち砕こうとしていました。そして、ヒトラーの電撃戦が、ヨーロッパのヘゲモニーをめぐるブリテンへの挑戦であってみれば、東部戦線の構築において、ソ連だけでなくブリテンの地域覇権に大きな打撃を与えることも大きな目標だったのです。黒海と地中海東部への枢軸同盟の勢力圏を拡大するということです。
このヒトラーの作戦は、1942年までは大きな成功を収めました。バルカン半島全域が枢軸同盟の支配下に収まったのです。
チャーチルにとっては、ブリテンが枢軸同盟の軍事的支配を受けているバルカン半島をふたたび自分の勢力圏に取り戻し、地域覇権――つまりカスピ海・黒海から中東におよぶ産油地帯での権益――を再構築することが急務でした。それゆえ、第2戦線はどこよりもギリシア・バルカン半島に設定されなければならなかったということになります。
一方、スターリンにとっては、アメリカ大統領ルーズヴェルトを説得して、第2戦線を西ヨーロッパ大西洋岸に構築させることが課題でした。とはいえ、その狙いが果たせなかった場合に備えて、ソ連軍をいち早くバルカン半島・黒海西岸方面に進撃させて、この地域をソ連の軍事力の優越において解放し、戦後の影響力拡大をはからなければならなかったのです。
そのためには、ソ連軍はドゥニエプルをできる限り早く渡河して速やかにルーマニアやブルガリア、ハンガリアに攻め込まなければならなかったということになります。
こうして、将来のバルカン半島・南ヨーロッパ、そして地中海東部についての勢力・権益をめぐってブリテンとソ連とは熾烈に競争することになりました。多大に相手を出し抜こうと画策していました。冷戦の基層構造の最大の要因の1つは、すでにこの段階で姿を現していたのです。