1943年初冬から44年春までは、ソ連軍の西進によりドイツ軍の戦線はあちこちで切り裂かれ、後退しては軍編成を立て直すという事態の連続でした。
1943年11月にはソ連軍はキエフを奪回しました。この年の秋には、黒海・クリミア方面でのソ連軍の広範な攻勢が持続していました。
ソ連軍の反撃・攻勢はフィンランドからバルト海東部でも展開されました。
1944年春から初夏にかけて、ソ連軍参謀本部は、41年当時のソ連領土の完全回復とポーランド侵攻からさらにベルリン攻略への戦略を検討していました。
この頃、アメリカ・ブリテンを中心とする連合軍は、北フランスからネーデルラントにいたる地帯のどこかに大陸への上陸・侵攻の突破口を開く計画を打ち立てていました(「史上最大の作戦」参照)。ライン下流域・セーヌ河方面から進撃してライン川を越えて、ドイツ本土を攻略してベルリンに迫る、という方針でした。
スターリンは、連合軍の西部戦線からのベルリン攻略よりも速く東部戦線からのベルリン攻略を達成することを狙っていました。というのも、すでにチャーチルは戦争後のソ連包囲網の構築を露骨に模索していたこともあって、ベルリン攻略で先んじた陣営が、戦後のヨーロッパのレジームの再構築で優位を確保できるという読みからでした。
それゆえ、ソ連側はベラルーシ全体とウクライナの西半分の解放をいち早く達成して、バルト海方面での反撃攻勢を促迫し、ポーランド北部から東プロイセン→ベルリンに急迫する進撃路を確保しなければならなかったのです。
一方でバルカン半島をめぐっては、ウクライナ南部の征圧をつうじてカルパティア山脈を越え、ルーマニアへの侵攻経路を確保しなければなりませんでした。
そのなかで、戦略的=政治的に最優先となるのは、やはりベルリンへの攻略路の早期確保でした。
映画では、スターリン自らが、ジューコフ将軍らの参謀本部スタッフに「この作戦をパグラチオン作戦と名づけよう」と提案した場面が描かれています。
パグラチオンは、ナポレオン戦争で功績を挙げたロシア帝国の将軍の名前だということです――フォン・クラウゼヴィッツの著書『戦争について』(後半の戦史事例の考察の部分)で頻繁に登場する将軍なので、興味のある人は同書を参照していただきたい。
さて戦線の反対側では、ドイツ軍がソ連軍の反撃攻勢を食い止めようとしていました。ところが、バルト海からキエフを経てウクライナ南部、さらに黒海にいたる長大な戦線のどこにソ連軍が次の攻勢で最大の重点を置いているのか、判断に迷っていました。
というのは、戦線のいたるところが綻びていて、戦力(兵員や兵器、補給路など)の損耗がひどかったために、ソ連側の進撃を効果的に食い止めるためには、どこかに重点を置いて残っている戦力を集中・再結集しなければならなかったからです。この局面では、物量に物を言わせて押し寄せてくるソ連軍に対して、もはや戦線の全体にわたって手厚い防備を施すことはできなかったのです。
そのさいドイツ軍側は、情報収集・分析において、ソ連軍の大規模な偽装運動、陽動によって誤った先入観を抱くようになり、この先入観が事態の冷静な判断を妨げていました。
前線からの情報によれば、ソ連軍はスモレンスク、ベラルーシ方面に大きな戦力を配備していることは確かでした。
ところが、ソ連軍は、ドゥニエプル下流域からウクライナ南部方面にも大軍を派遣していたのです。しかも、その兵力規模が何倍にも見えるようにカムフラージュしていました。この方面では、ベルリンへの攻略路が確保できれば、ドイツ軍の戦線をさらに大きく崩壊・後退させることができるので、そのときこれらの戦域全体で多方面的に攻勢を加えるためでもありました。