ヨーロッパの解放 目次
リアリズムとプロパガンダ
映画の見どころと分析視角
ソ連型リアリズム
リアリズムとは何か
東部戦線の特異性について
西部戦線から東部戦線へ
ナチズムを甘く見たソ連
ドイツ軍の破竹の侵攻
スターリングラードの死闘
クルスクの戦闘
クルスク戦の実相 @
クルスク戦の実相 A
ドゥニエプル渡河作戦
驚くべき奇策
河畔の激戦
ドゥニエプル渡河の戦略的な意味
パグラチオン作戦
罠にはまったヒトラー
戦車の歴史の1断面
T-34の優秀性
過剰適応の失敗 T-54/55、T-62
乗員の生存率を最優先とする設計思想
T-34のデビュー
T-10/JS型戦車について
「ヨーロッパの解放」以後の戦争映画
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史上最大の作戦
パリは燃えているか

ナチズムを甘く見たソ連指導部

  戦略の欠如という点ではソ連もドイツにひけを取りません。
  ソ連共産党が支配するコミンテルン(第3インターナショナル)では、すでに1935年にディミトロフの名目上の指導下で、「反ファシズム統一戦線」の構想が公式に提起されていました。1930年代に台頭してきたナチス=ドイツやファシズム=イタリア、そしてヨーロッパ諸国で台頭してきた右翼排外主義(極右思想)に対して、そのとき左派や社会主義者、労働運動は左右の違いを克服して、連帯・同盟して統一戦線を組織化していく、という一般方針が提示されたのです――外形的には。

  とはいえ、この政治的同盟(統一戦線・人民戦線)は、反ファシズム運動全体のなかで、ソヴィエト派共産党・社会主義勢力が指導性・ヘゲモニーを獲得していくための条件または手段として位置づけられていました。ソ連派の左翼が反ファシズム、反ナチズム運動のなかで優越性を確保する見込みがなければ、こうした連帯に背を向けても構わない、いやむしろ、事態を静観するという立場が見え隠れしていました。偏狭な党派主義が中核にあったのです。
  この時代、イタリアを除けば、ヨーロッパやアジアの共産党や左派社会主義政党は、各国内の自発的・自立的運動の結果というよりも、ソ連共産党が支配するコミンテルンの指導下でその支部として組織され、運動形態も決定的に影響されていました。つまりは、各国の共産党や社会党は戦争勃発や侵略される危機にあっても、ソ連共産党の影響から自立的にナチスやファシストに対する抵抗・反乱運動を組織化できなかったのです――イタリアを除いて。
  そして、ソ連共産党は、ナチス・ドイツとブリテン=フランス同盟との戦争を、資本主義諸国家のあいだの帝国主義的(つまりは勢力圏再分割のための)戦争と性格づけていました。そうなれば、それはソ連を包囲する資本主義的勢力の内部分裂・抗争であって、これが激化するのはむしろソ連包囲網の圧力を後退させることなる・・・つまり、共産主義者、左派社会主義者は事態を静観しても構わない、という実に「日和見」的な行動方針を導くものでした。
  これは、ナチスドイツによって攻め込まれたフランスでさえも、戦争と占領の初期段階まで共産党や「マルクシスト」のあいだに広く浸透していた先入観(状況認識)でした。⇒関連事項の参照


  状況認識のこの誤りは、ことにドイツ軍やイタリア軍がいち早く侵略を開始したバルカン半島・南ヨーロッパ(旧ユーゴスラヴィア、ブルガリア、クリミア地方など)では、恐ろしいほどの被害・破壊(民衆の苦しみと死、困窮)をもたらす事態を放置する結果になりました。侵略が始まった局面では、左翼や社会主義者たちは多くの場合、無抵抗だったのです。
  彼らは、ドイツ軍の侵略と征服に抵抗していた民衆の運動に背を向けて静観(自派勢力の拡大と温存に努めた)を決め込み、むしろ、民衆の自発的反乱・抵抗を妨害することも多かったのです。ナチスの軍事的支配の悲惨な結果が明白に現れたときには、事態は手遅れになっていました。
  なるほど後になって、左翼は大きな自己犠牲をはらってナチスへの抵抗運動に献身・活躍するのですが、侵略と占領支配の初期段階までソ連指導部に盲従したために生じた混乱や被害はしかるべく批判されなければならないはずです。

  皮肉なことに、その結果、バルカン半島やクリミア地方からナチスドイツと枢軸軍がソ連を包囲、侵略するために強固な戦線と勢力圏を与えてしまったのです。それゆえまた、スターリンの目論見よりも、ずっと早く、しかもより大規模で破壊的なナチスの侵攻を可能にしてしまったのです。
  バルカン諸国の共産党・社会主義勢力がはじめから頑強に抵抗して、民衆をこの闘争に組織化していれば、ソ連への打撃はもっと遅く始まり、破壊力もかなり小さくなったでしょうに。
  スターリン・レジームは、自らを追い込むような政治的=イデオロギー的立場を国外に広め浸透させ、誤った戦術的・戦略的な状況判断に終始した――ゆえに、ナチスに対するの戦争準備は恐ろしく立ち遅れてしまいました。

  では、対ドイツ戦争をめぐるスターリン政権の見通しはどういうものだったのでしょうか。実際に起きた出来事から、推察するしかありません。
  ソ連政府としては、政治的にソ連に敵対する西ヨーロッパの有力諸国家に対してドイツ軍が打撃を与える時間的余裕を与え、そのあいだに対ドイツ戦への備えを固めるという方針でした。が、フランスがあれほどに脆く占領され降伏されるとは見ていなかったでしょう。したがって、わずか1年後に、ドイツ軍の主力が対ソ連――バルト海、フィンランド国境、ウクライナ、グルジア、アゼルバイジャンなどの広大な戦線――に配備投入されるとは見ていなかったようです。
  さもなくば、紋切り型で独善的な「帝国主義的戦争」理論をもっと早く撤回して、もっと効果的で現実的な「反ファシズム統一戦線」理論を構築し、各国共産党・左翼に普及させていたはずです。
  もっともそれは、ソ連とスターリンにとって、ソ連共産党の顔色ばかりを窺ってきた各国の卑屈な社会主義運動やマルクス主義者がソ連から自立して、自国の具体的条件に沿った運動や革命路線を模索しかねない「危険性」をもはらんでいたのですが。

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