まだ筏を連結した浮橋が川の中程に達するよりも前に、その揺れる橋の上をT-34戦車隊が動き始めました。浮橋の経路が延伸するごとに、次々に戦車や兵器、歩兵隊、砲兵隊がその上を移動し始めます。
なにしろヨーロッパでも最大級の河川で川幅も流水量もかなりのものです。その流れにもまれて不安定に揺れる浮き橋は、すこぶる危険な道でした。橋が傾いたりすれば、いとも簡単に兵員も戦車も傾き、水中に沈んでいきます。数え切れないくらいの数の戦車や大砲、トラックがドゥニエプルの流れに飲み込まれていきました。
これは、とてつもなく大規模で無謀な作戦でした。おそらく歩兵20個師団(30万人)以上が参加したかに思われます。となれば、作戦域は何キロメートルにもおよぶので、いくら陽動や偽装を施しても、かなり早期にドイツ軍の偵察・哨戒部隊、偵察航空機によって発見されることは避けられません。双方の哨戒部隊のあいだの遭遇戦も起きました。
こうして、まもなくドイツ軍の長距離砲撃による弾幕が、ソ連軍の渡渉地点に落下するようになりました。かなり遠方からの砲撃ですが、たまに浮き橋を直撃します。あるいは、至近弾がもたらした大波で浮き橋が壊れたり、歪んだりします。その結果、大河のなかに消える戦車や兵員の数もまた増大していきます。
ソ連軍の前線司令官は、味方の砲兵隊に、敵砲兵陣地への大射程の砲撃を要請しました。こうして、大砲どうしの遠距離射程の砲撃戦も展開しました。
やがて、いくつかの浮き橋は対岸に到達しました。T-34あるいはSU-85が次々に上陸を果たし、隊列を形成して、台地に構築されたドイツ軍の陣地に突撃していきました。SU−85突撃砲戦車とは、T34の本体シャーシに直接に85ミリ砲を設置し全面と砲周りに分厚い防御装甲を施した戦車で、シルーエットがきわめて低い形状です。
SUは正確にはロシア語でСУ(エスウー)と表記します。突撃砲戦車または駆逐砲戦車 destroyer, Jagdpanzerkanmfwägen ――は、ドイツとソ連の戦車情報のスパイ合戦の結果、双方の軍で1943年以降に開発され前線に投入されました。砲塔をなくして主砲を戦車の胴体部分に直接据え付けできるので、車高を約2メートルとすこぶる低くして、当時の通常の戦車製造技術では不可能だった口径の大きな砲を搭載できたのです。
ソ連軍はこのあとまもなくСУ-100という100ミリ砲を搭載した型を前線に送り出し、ドイツ軍は88ミリ砲を搭載したヤークトパンターに次いで、なんと128ミリ砲を搭載したヤークトティーガーを開発しました。ただし回旋する砲塔がなく主砲の射撃角度が正面だけに制約されていたため、ほぼ正面の敵にだけ限定した対戦車砲として使われる場合が多かったようです。
大河川をいわば死守すべき防御線と位置づけていたドイツ軍の防衛陣形は、ひとたび破られれば、とりわけソ連戦車隊が上陸進撃してくれば、いとも簡単に崩壊するしかありません。
ところが、湿地帯・沼沢地であるため、ドイツ軍は大きな重量の戦車が渡河してきての戦闘はまずないものと決めてかかっていました。ゆえにまた、敵側の配備も同様と考えて、対戦車用兵器の用意はしておかなかったのです。
かくして、ドイツ軍の防御戦はまたたくまに食い破られていきました。
とはいえ、大河川ドゥニエプルを挟んでの攻防の最前線は、スモンレンスク近辺から黒海・アゾフ湾まで延べ1400キロメートルにもおよんでいました。地形も様々で湿地帯もあれば、乾燥した丘陵台地もあります。戦闘機・爆撃機どうしの航空戦、長距離砲どうしの砲撃戦、戦車戦、塹壕・白兵戦は流域のいたるところで繰り広げられていました。双方の兵力を合わせると、400万を超えたといいます。