1960年代の幾度かの戦争を経て、パレスティナ地方におけるイスラエル国家の優越が不動のものになってから、むしろパレスティナ・ゲリラとイスラエルとの敵対抗争はずっと執拗で陰惨なものになった。パレスティナでは、欧米の支援を受けて国民国家を形成したイスラエルの住民集団と、イスラエルの工芸や圧迫を受け続け、内部で分裂し国家を樹立できない勢力とのあいだには、力関係のうえで恐ろしいほどの格差が生まれ、構造化し、拡大したのだ。
その結果、「国家対国家」という形での対抗や競争を挑むことができない側は、突発的で粗暴なテロリズムという形態で無謀な闘争を試み、相手に打撃を与えるしかなくなった。ところが、パレスティナ過激派がイスラエルに与えた打撃をはるかに超える程度の報復を受けることになった。
パレスティナ過激派のテロは、その衝撃で世界中にパレスティナ問題の存在とその深刻さを訴える宣伝にはなったが、パレスティナ原住民の生活状況や人権状態を変革・改善するよりも、むしろ凄惨なイスラエル政府の反撃と支配地拡大を呼び起こし、原住民をさらに危機的な状況に追いやる結果になっている。
その事件は、ドイツ連邦共和国のミュンヘンで発生した。
オリンピック大会が始まって間もない、1972年9月5日の未明、選手村のフェンスを8人の男たちが乗り越えた。その騒ぎに気づいた警備員もいたが、前日の夜からのパーティで「朝帰り」になったどこかの選手団のメンバーだろうと思ったようだ。
選手村に侵入した男たちは、このところ、パレスティナ過激派のなかでも陰惨なテロリズムを繰り返している「黒い九月」のメンバーだった。彼らは、宿舎に入るとマシンガンを取り出して、イスラエル選手団居住区に突進した。
テロリスト集団の指導者は、イスラエル選手団の部屋のドアをノックした。ドアを開きかけたレスリングティームのコウチは、相手が武装しているのを見て、ドアを閉めて押さえつけながら、叫んだ。
「みんな、起きろ。襲撃だ」
テロリストたちは、強引にドアを押し開けると、コウチを射殺して部屋になだれ込んだ。そして、ウェイとリフティングのチャンピオンに銃弾を浴びせたのち、イスラエル選手9人を人質にとった。選手団のうち1人だけは、運良く窓から逃れることができた。
テロリストは宿舎に立てこもった。
スキーマスクで顔を覆ったテロリストたちは、窓から「黒い九月」の署名が入った声明文書を投げ落とした。
襲撃と騒ぎはただちに警察に通報された。警察隊が駆けつけ周囲を包囲すると、オリンピックの取材合戦をしている世界各国のマスメディア報道陣も事件を嗅ぎつけて群れ集まってきた。事件はたちまち世界中に報道されることになった――憶測や誤報も含めた、かなり混乱し錯綜した内容で。