本題に戻ろう。
イスラエル政府が、国家意思の表示として、対抗テロリズム作戦を展開するまでに、ミュンヘンの惨劇からおよそ2か月の期間があった。この期間のあいだに、イスラエル政府は、逡巡し悩み抜いた挙句に対抗テロリズムを遂行せざるをえない状況に追い込まれたともいえる。
ミュンヘンのテロルだけなら、ゴルダ・メイアは別の形での報復戦術を決定したかもしれない。
その間の事情は映画には描かれていない。
何があったのか。
パレスティナ=アラブ過激派による暴力と破壊が繰り返されたのだ。
1972年5月8日、ベルギーのサベナ航空のテルアヴィヴ行きボウイング707がパレスティナ・テロリスト、「黒い九月」のメンバー4人(男女各2人)によってハイジャックされた。テロリストたちは機長にテルアヴィヴのロッド空港に向かうよう命じた。彼らは、乗客の身の安全と引き換えに、イスラエル政府に拘束されている300人以上のテロリストたちの釈放とそのカイロへの空輸を要求した。
しかし、このテロルは、巧妙で周到なイスラエル政府の交渉と強行救出作戦によって打ち砕かれた。訓練を積んだ急襲部隊によって、テロリストのうち男性2人が射殺、女性2名が捕縛された。乗客は、機内での銃撃戦で1人が重傷(搬入先の病院で死亡)を負った以外は、無事救出された。
そんな事件が、ミュンヘン事件の前哨戦として発生していた。
そして、ミュンヘンの惨劇後。
1972年9月の終わりになってから、世界各地のイスラエル在外公館(大使館・領事館)には「手紙爆弾」が送りつけられた。そのあて名は、大使館付きのモサドや軍情報部要員だったから、いく人ものエイジェントが死傷した。
これまた、「黒い九月」の仕業だった。
イスラエル側は、世界中の在外公館を鉄壁の要塞並みに改修補強するとともに、手紙・荷物のX線投影検査機を導入して、徹底したセキュリティ対策を施した。
手紙爆弾の効果が薄れてくると、パレスティナ過激派側は、各国の大使館や民間企業、マスメディアなどに一般市民として勤務=潜入していたモサドのエイジェントたちに直接攻撃を仕かけるようになった。罠や待ち伏せで、何人ものエイジェントたちが死傷した。
「黒い九月」は、高度な情報戦略とネットワークをつうじて、世界的に配置されたイスラエル国家装置の担い手を正確に狙って、殺戮作戦を展開してきた。放置すれば、イスラエル国家の国際的な安全保障装置がしだいに破壊されていきそうな様相だった。
ゴルダ・メイアは、以前に陸軍情報局長官を務めていたアハロン・ヤリーヴ将軍をテロ対策担当首相補佐官に任命し、モサド長官、ツヴィ・ザミールと協力して、「黒い九月」のテロリズムへの対抗策を検討立案するよう命じた。
この2人が10月末に提出した対策案が、ミュンヘン事件に直接間接に関与した「黒い九月」の幹部と有力な協力者たち11人を殺害する作戦だった。
メイア首相は逡巡した。この作戦が少しでも発覚すれば、イスラエルの国際的地位と名誉――それまで、どんなに攻撃されても対抗テロリズムはおこなわないという立場によって維持してきた――が失われてしまう。そういうリスクを恐れたからだ。
しかし、メイアは決断した。
その決断がいかに重苦しく、また孤独な意思決定だったかは、この作品のシーンに如実に示されている。
ところで、カウンターテロリズム counter-terrorism という言葉には、テロリストに対抗して立案・実行されるテロリズムという意味が、その中心的内容として含まれている。すなわち、「対抗的な暴力の行使」という意味が。カウンターという語には「反対向きの」「対抗的な」という意味がある。
2001年9月以降のアメリカ合州国の「カウンターテロリズム」にも、対抗暴力という意味が明白に込められている。英語では、その意味合いが如実に示されている。
ところが、日本に訳されると「反テロ活動」とか「反テロ対策」というような、本来の意味合いがかなり薄められた表記になる。日本の政府、外務省や防衛当局は、こうした訳語によって、《対抗テロリズム》としてのイラク戦争やアフガン戦争、インド洋での艦隊の展開への日本政府の関与を、いわば誤魔化してきた。
用語の政治的・軍事的内容をこんなふうに「捻じ曲げる」べきではない。
私たちは、日本の政府、ネイションとしての日本が「対抗暴力を行使する」軍事同盟に参加したと、明白に意識すべきである。この軍事同盟の活動が、システム=総体として「対抗テロリズム」という軍事力=暴力行使なのだから、そのどの部分を担おうと、私たち国民(ネイション)は、その暴力、カウンターテロリズムにコミットしているのだ。
それにともなう結果責任、将来への責任を曖昧化するべきではない。