パリに戻ったアヴナーは、ルイからアリ・ハサン・サラーメの情報を手に入れた。サラーメはロンドンに滞在中だという。アヴナーはサラーメ暗殺作戦に取り組もうと決めた。
ところが、この作戦が当初の想定を超えた規模になり、戦線も拡大していくとともに、仲間のなかに精神的動揺や懐疑、逡巡が生まれてきた。
はじめは殺戮の標的を限定し、本人以外を巻き込まないという原則を貫こうとした。けれども、標的たちを抹殺するためには、彼らを保護する組織や家族を巻き込まずにはおかなかったし、彼らと結びついたKGBエイジェントさえ殺してしまった。作戦はすっかり変貌してしまった。
ティーム内の意見も割れた。カールは、法規範に厳格なドイツ系らしく、当初の自己抑制をきっちり守るべきだと主張した。スティーヴはそれを臆病となじった。
しかし、カールは、これまで厳しい戦場で数多くの戦功をあげてきたヴェテラン兵士だった。ゆえにこそ、目標や戦術に抑制をかけない作戦が大きなリスクや被害をもたらすことを熟知していたのだ。戦闘に熟達した者としての的確な判断だった。
アヴナーはティーム内部の動揺を抑えて、全員が武装してロンドンでサラーメを襲撃し抹殺する方針を決定した。「護衛要員がいたら、いっしょに皆殺しにするさ」と言い切った。
ところが、テロリスト組織「黒い九月」の指導者、サラーメはCIAと結びついていた。両者のあいだには、じつはミュンヘンのテロリズム以前から「裏取引き」が成立していたのだ。
「アメリカ政府と市民をテロルに巻き込まない」という条件のもとに、合州国は、パレスティナ=イスラエル関係をめぐっては「中立」を保つという約束をPLOと交わしていた。そして、CIAは、PLOへの影響力の仲介役としてサラーメを利用するため、彼を協力員として高額の報酬を支払っていた。
しかも、ミュンヘンのテロル計画を事前に察知していたにもかかわらず、アメリカの政府や選手団、市民には直接影響がないとして、黙殺を決め込んでいたのだ。
何しろ当時、アメリカはイランのパーレヴィ国王と同盟していたうえに、サウディアラビア王家とも密接な同盟を結んでいたから、中東問題をめぐっては、それほどイスラエルとの親密な関係を結ぶ必要がないと判断していたのかもしれない。
アメリカのこの地政学的判断の限界は、OPECの反乱=石油危機と70年代末のイランの「イスラム革命」によって、露呈するはずだった。
こうして、サラーメ暗殺は、イスラエル=モサドとアメリカ=CIAとの関係をもこじらせかねないリスクの高い冒険ではあった。
だが、襲撃決行のときが来た。初冬のロンドンの中心部、繁華な表通りから少し入った裏通り、雨が降りしきる夜だった。
アリ・ハサン・サラーメは仲間(護衛役)3人を引き連れて通りの歩道を歩いていた。そのすぐあとをアヴナーが追う。さらにそのあとをロバートとハンスが並んで追跡する。
車道では、スティーヴが運転するBMWがサラーメたちに追いつこうとしていた。
アヴナーは反対側の歩道に渡るために足を速めて、サラーメたちを追い抜いた。そして、ふたたび道を横切って反対向きに歩き、サラーメに近づこうとした。
その場所に向かって、直交する小道から出てきた人影があった。カールだった。彼は持っていた傘を広げようとした。その右手には拳銃が握られていた。
サラーメの一行の前方から2人、横に1人、後方から2人。
こうして、包囲網は完成した。全員、銃把を利き手で握っていた。