第3章 都市と国家のはざまで
――ネーデルラントの都市と国家形成――
第1節 ブルッヘ(ブリュージュ)の勃興と戦乱
この節の節の目次
このフランデルンの織布・毛織物製品をブルッヘブリュージュから東に向けて売りさばいたのは、ドイツ人、とりわけリューベックの商人だった。ハンザ商人は、この都市で早くから特権を与えられ、原毛のフランデルンへの輸入と毛織物の中継貿易を担っていたのだ。というのも、全ヨーロッパからブルッヘに商人が集中するようになってからは、フランデルン市場では外国商人どうしでの織布の取引きが禁じられ、必ずブルッヘ商人を介した取引きでなければならなかったからで、ハンザ商人は通商特権をつうじて北海沿岸やバルト海方面、ライン地方への毛織物貿易を仲介・組織していたからだ。その代わり、ブルッヘ商人は織布の域外貿易から撤退してしまうことになった〔cf. Rörig〕。
おそらく彼らは、遠距離貿易をめぐる駆け引きや知識、資金の蓄積が物を言う取引きからは手を引いて、原料買付けの独占と織布生産過程の支配によって利潤を獲得する方を選んだのだろう。その方がリスクが少ないと踏んだのだろう。背景には、14世紀中にブルッヘの商人団体はハンザの貿易支配からの自立を求めて何度も戦いを挑んだのだが、そのたびに痛烈な反撃――貿易封鎖による原料調達と食糧供給の危機――を受けて屈服してきたという経験があった。
ところが、貿易ネットワークの組織化と管理は、長期的に見ると、ネットワークがおよんだ諸地方を社会的分業のなかの非自立的=従属的な諸環として組み込むことによって、それらの包括的な再生産条件を支配することにつながるものであった。より広い貿易経路を支配することが、利潤の獲得と資本蓄積における優越的地位をもたらすことになるのだ。
こうして、ブルッヘは遠距離交易を自ら組織したわけではなかった。製造業の中心地としての地位の再生産は、外部からきた商人の貿易組織に依存していた。だが、生産過程への支配は、ブルッヘ商人自身が掌握していた。だから、ハンザの影響力は限られていた。ところがやがて、北イタリア諸都市の商人が、はじめはシャンパーニュを経由する陸路で、後には地中海からイベリア半島に沿って大西洋を周航する航路で、フランデルン諸都市にやってくるようになった。彼らはハンザよりもはるかに大きな財政能力と貿易組織力を備えていた。北イタリア商業資本は、香料および高級織物取引きとそれにともなう貨幣資本の供給をつうじて影響力を高めていった。
北イタリア諸都市の有力商人たちは、ハンザやネーデルラントの商人に比べてけた違いに富裕だったから、そのうちにフランデルン諸都市への羊毛供給の主要経路を掌握して――前貸し金の用立てなどによる――金融的支配をおよぼすようになった。
こうして、フランデルン諸都市の工業地域としての勃興は、域外商人の通商能力と金融能力に依存してのことであって、羊毛繊維業が発達するほどに、その依存=従属は深まっていくのだった。ゆえに、商業と金融の交差点(軸心)が別のところに移動してしまえば、その優位は脆くも崩れ去ってしまうものだった。
バルト海地域とフランデルンとの商品交換を仲介したのは、主としてハンザ商人であった。13世紀にバルト海で強力になったドイツ商人が、フランデルンのこうしたヨーロッパ東部向け商品取引きを系統的・組織的に仲介するようになったのだ。その結果、フランデルンと東部の諸都市との個別的取引きは駆逐されてしまった。ハンザの対フランデルン取引きで際立った役割を果たしたのは、リューベックとハンブルクであった。東部向け貿易の独占によってハンザは、フランデルンに強い影響力をおよぼす勢力となった〔cf. Rörig〕。つまり、ハンザはフランデルン諸都市の再生産に不可欠な商品の供給と製品の販売の経路を掌握したことになる。しかし、ハンザが自ら進んでフランデルン諸都市を力で屈伏させることはめったになかった。
というのは、フランデルン伯、諸都市、ハンザは経済的に相互補完し合う必要に迫られていたからである。つまり、伯と諸都市がハンザに与えた商業特権には、ハンザの商品をブルッヘにのみ集積させるという義務をともなっていて、フランデルンを商品集積地とするためにハンザの役割は不可欠な補完作用を果たしたのである。フランデルンとハンザの利害関係は、ブルッヘをヨーロッパ交易網の中心市場とするという点で一致していた。だが、このことは、フランデルンでのブルッヘの地位の後退とともにハンザの商業上の優位を掘り崩す原因になった。
さて、パリの有力商人と王権は、13世紀はじめに征圧したフランデルンの南部に織布工業の拠点を確保していたが、西フランス諸地方にとっては、工業製品の補給のためには沿岸舟運によるブルッヘへの経済的連絡が不可欠だった。ギュエンヌやガスコーニュ、ポワトゥー地方などの葡萄酒および穀物の輸出とフランデルンの織物の輸出とがうまく補い合っていたのだ。そのため、ガロンヌの河口に程近いラ・ロシェルには多くの外来船舶――はじめのうちはフランデルン船、のちにはハンザの商船――が来航した。ブルッヘへの航海の途上で、積み荷の補充のためにこの港に停泊するイベリア諸地方の船も多かった。
西フランス地方の大半はイングランド王家と家臣団の領地であったので、フランデルンを中心にイングランド南部と西フランスを結んだ交易網も発達していた。
さらに、フランデルンは北イタリアからも商人を引き寄せた。ロンバルディーア人たちは、すでに12世紀にフランデルンで、とくにアラスで、金融業者として働いていたという。14世紀初頭の戦乱(あとで見る)にさいしてブルッヘは、同市に常駐するイタリア人大金融家に巨額の債務を負うことになった。資金調達での従属は、商業特権の切り売りにつながった。フランデルンと北イタリアとの結びつきは、まず14世紀初頭にジェーノヴァとヴェネツィアが、次いでフィレンツェが航路を開いたことによって深まっていった。毛織物の染色原料としての明礬の供給も、イタリア商人に依存していた。
イタリア船が運んだものは、第一にレヴァント経由商品のアジア産香料、次いで聖職者の礼服用の高価なイタリア産絹織物などであった。これらは、フランデルンから、さらにハンザ商人の手を経て北西・中部・東ヨーロッパに売りさばかれた。イタリアからの陸路による商品取引きも、早くからシャンパーニュ地方の大市と結びついて発達していたが、ヴェネツィアの伸張とともに、陸上交易路の主流は、ライン河やドーナウ河沿いにアルプス東回り(ブレンナー峠越え)にイタリアに向かう街道に移っていった。
これらの流通経路を通って多品目の膨大な量の商品がネーデルラントに集積され交換されたが、それは決済をめぐる巨大な貴金属・貨幣資本のやり取りをともなっていた。現物の貨幣=貴金属とともに、たくさんの為替手形や信用状が行き交っていた。このやり取りで、支配的地位を占めたのは、北イタリアの商人であった。商品交換の集積地での大量の貨幣の運動は物価の上下のリズムを決定し、有力都市の物価の変動は時間差をともなって、交易相手の諸地域に波及していった。クモの巣(ウェブ)の中心部からネットワークをつうじて、物価の変動の波が同心円状に拡散していった。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成