補章-1 ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から近代初期
この章の目次
西ヨーロッパでは、13世紀までに開拓開墾による農地拡大は限界にぶつかったようだ。そうなると、領主層の収入拡大は所領の奪い合いかあるいは農民への搾取強化によるしかなくなる。
領主層の搾取強化に対して農民は、局地的に団結したり、逃亡したりして抵抗した。逃亡した農民が各地に分散することによって、農民抵抗は広域化し、ついには武装蜂起・農民戦争へと発展した。このような農民階級の抵抗は、困窮からの絶望的反乱もあったが、むしろ多くは農民の生活条件を向上させる可能性が開けたからでもあった。
広範化した農民抵抗・蜂起は個別的領主による局地的な支配秩序では、もはや封じ込めることはできないものになり、この意味で、地方的規模での有力領主層(君侯)による権力集中、つまり支配圏域の拡大を不可避なものにした。それはまた、領主層の内部での支配圏域の拡張競争をもたらし、領主階級の内部での生き残り闘争を引き起こした。
イングランドと西フランクの多くの地方では、13、14世紀に農民反乱は大規模化し、局地的な領主秩序では鎮圧できなくなった。そのため、地方的権力を超える君侯の権力、つまり王権の拡張を必然化したようだ。
これは領域国家、君主制主権国家の形成への動きを開始させる大きな要因の1つだった。他方で、領主たちの領地拡大競争=争奪戦も目立つようになった。商品貨幣関係の浸透は階級関係を変え、秩序維持のための仕組みを揺るがし、その変革を帰結したのだ。
ただし、フランスではいくつもの君侯権力が成長し、多分に名目化していた既存のカペー家王権の衰退・没落を招いた。領主層は王権をないがしろにして、それぞれ有力な君侯たちの周囲に結集し、いくつにも分裂した貴族同盟を形成して争うようになった。
有力君侯を盟主とする領主連合のあいだの地方的紛争の断続、それが百年戦争の実態で、フランスの有力君侯のあいだの勢力圏と王位をめぐる争いだった。当時の君侯領主の継戦能力はせいぜい3か月程度で、移動距離も限られていたので、戦線は局地から局地へと移動していった。
そのさい、フランス西部を支配したノルマンディ=アンジュー家は、対岸の辺境イングランドで王位を保有していたので、一連の戦役はフランス王権とイングランド王権との戦争という外観を帯びることになった。
しかし、当時はフランスとかイングランドというような国民的まとまりはどこにも存在していなかった。属領としてのイングランドも含めた西フランクでの君侯領主同盟のあいだの戦乱にすぎなかった。
いずれにせよ、ヨーロッパの遠距離貿易の拡大と商品経済の浸透にともなって、統治のコストとリスクが飛躍的に増大し、諸君侯のあいだでの戦争が頻発し、集権化を進める王権・君侯と地方領主の対立が展開した。めまぐるしい力関係の変化と支配秩序の組み替えが進行していくことになった。
原生林の伐採あるいは干拓と耕地の開拓をつうじた農業の目立つほどの発達は8世紀頃から始まり、とりわけ11世紀から13世紀にかけて急激に進んだが、それは森林を破壊し耕地に変えていくことによって、ヨーロッパの生態系を乱暴につくり換えてしまうことになった。
地中花粉分布の分析調査によると、11世紀頃までのヨーロッパは総体として見ると、大部分は森林、残りの部分は草原や荒蕪地におおわれて、人間の居住地帯や耕地は豊かな森林に割り込む形で散在していたという。
もともとゲルマン諸部族では、森林伐採のあと粗放な焼畑農業を行い、土壌の肥沃さが枯渇すると移動していく農法が支配的だった。移動の後には樹林が復活した。ゆえに、森林の伐採開拓は大規模なものではなかった。
ところが、こうした森林中心の生態系は、11世紀から13世紀末までの大規模な農地開拓(森林伐採)と三圃制農業の普及とともに、大半が破壊されてしまったようだ。ヨーロッパの生態系と農法は大きく組み換えられたのだ。
耕地の開拓は、森林伐採の直後に家畜――雑草がまばらな段階には羊を、雑草が繁茂すると牛馬――を放牧して、次の段階でこの牧草地を穀物畑に転換するという方式でおこなわれた。やがて、放牧地の比率を下げて、農地を三つに区分して輪作で穀物生産を行なう耕地を増加させる三圃制農法が普及することになった。三圃制農法が浸透すると、牧畜の比重は小さくなっていった。
ネーデルラント、ライン河口域における干拓による農地開拓では、森林伐採の代わりに築堤と風車動力を利用した排水が最初の段階をなした。やがて乾燥した干拓地に牧草を生やして牧畜をしながら土壌改良をおこない、圃場づくりに進んだ。
こうして14世紀までには、自然林はだいたい伐採し尽くされて、当時の開拓技術では生産的な可耕地として開発できる限界にぶつかってしまった。フランスでは12世紀中には、すでに今日と同程度の耕地面積・耕地分布が生み出されていたと見られている。
農地の拡大が限界にぶつかってしまったため、13世紀後半には、村落どうし、村落と領主、領主どうしの放牧地をめぐる紛争が頻発したという〔cf. 木村・志垣〕。
13世紀の主穀生産の発達にともなって穀物供給の相対的過剰が生じるようになると、地方によってはぶどうやホップ、ビール用小麦などの加工原料作物という商品作物を栽培する農園経営が増加していった。これには、ぶどう酒やビールなどの農村製造業の発達がともなっていた。あるいは、成長する都市の近郊では果実や野菜、花卉などの園芸農業が広範に発達していった。
これは、穀物生産農業の発展と都市の商品経済の成長に対応した動きだった。いずれにせよ、遠方から食糧を調達することで、食糧穀物を栽培しない農地の比率が増加することになった。ヨーロッパ世界分業によって、都市はもとより農村でも食糧自給率が低下した地方が増加していった。
ところが、森林の伐採と農地の開拓は、森林と牧草地のかなりの減少をもたらしたため、生態系の深刻な変動をもたらしていた。しかも農業では、耕作と畜産の均衡を打ち崩してしまった。森林を切り開いて腐葉土が堆積した土地を耕地に転用し、肥沃度が低下すると休耕して牧草地に転換するというサイクルはしだいに途切れていった。
森林や牧草地の減少と作物の連作によって、耕地の肥沃度が低下するとともに連作障害が起き、収穫は逓減していった。気候の変動に対してもろく凶作や飢饉が起きやすい社会構造になっていったのだ。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
◆全体目次 章と節◆
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成