補章-1 ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から近代初期
この章の目次
ヨーロッパの多くの諸都市は中世後期に構造転換を経験した。その背景には、遠距離貿易の成長、それゆえまた遠距離貿易を組織する商人層の権力の勃興という事態があった。
だが、そのような諸都市にも前史があって、古くからの伝統や権力構造や秩序や「古い権利」として都市の構造や動きを制約していた。
西ローマ帝国が崩壊していく4世紀から7世紀まで帝国以来の都市は衰退し縮小し続けるが、それでも司教や修道院は都市の周囲の平和や秩序を守る権威の中心であり続けた。
8世紀から9世紀にかけて、ヨーロッパの各地ではローマ教会や聖堂、修道院などの建設や布教活動によって生まれた多くの集落があった。こうした集落では、教会や修道院の役員が領主として、市街とその周域を統治することになった。
古くからの大きな都市に加えて、こうして成長して規模を拡大した都市集落には、司教座が設けられるようになった。司教座都市の出現だ。
11世紀から13世紀にかけての開拓開墾や農村建設、植民によって経済的余剰がもたらされるようになると、荒廃し掠奪されつくして廃墟となっていた古くからのローマのウィラが都市集落として復活し、司教座や城を囲んでいた集落もまた都市といえるほどに変貌した。また、大きな集落や道路の交差地点にある集落には市が設営され、遠方から商人たちが来訪するようになり、都市として成長していくことになった。
こうして多様な都市が成長してきたが、ここでは文書記録を作成保存する能力にたけていた――それゆえ都市の成長の記録が残されていた――ローマ教会の司教座都市に話題を絞ろうと思う。
イタリアではミラノとアクィレィアに司教座 Bischofssitz が置かれ、大司教が派遣されていた。
司教座都市にはこのほかに、プロヴァンス地方のアルルとエクス、ローヌ河沿いにヴィエンヌ、リヨン、ブザンソンがあり、ドーフィネ地方にはアンブルンがあった。ガロンヌ河沿いにはボルドー、ロワール河流域にはトゥールとブールージュ、ノルマンディ地方にはルーアン、セーヌ河沿いにはランスとサンスがあった。
また、ライン地方ではマインツとケルン、トゥリーア、ザクセン地方ではブレーメン、海を越えたイングランドにはカンタベリーとヨークに大司教が置かれていた。
ことにライン河沿いには通常の司教座都市が多く、下流からユトレヒト、ヴォルムス、シュパイアー、シュトラースブルク、バーゼル、支流のモーゼル流域にはメッツとトゥール、マイン流域にはヴュルツブルクがあった。
さらに南ドイツからバイエルン地方にはアウクスブルク、コンスタンツ、レーゲンスブルク、ザルツブルクなどがあった。ザクセン地方にはミュンスター、ミンデン、オスナブリュック、ヒルデスハイム、ハルバーシュタットがあった。
大司教や司教、修道院長などの上級聖職者層は有力な領主貴族で、古代ローマ以来の古典教養や文書技術を備えていたため、近隣の有力君侯たちの宮廷でも尚書長官や大法院長官、顧問官などの要職を兼務していた。彼らは教会・修道院の役員として教皇に服属していたが、近隣の有力君侯たちとも臣従関係を結んでいた。
これらの聖界領主たちもまた所領=農村を支配し、農民からの貢納や賦課、賦役によって食糧を集め、収入を得ていた。開拓農村では、多数の修道士たちが開墾を指導し、穀物や果樹の栽培方法、蓄獣の育成などの農業技術を研究し、農民に伝授していった。こうした活動のおかげで多くの修道院は農民から尊崇を集め、従順な農民と広大で肥沃な所領を獲得した。
さて、都市集落に建設された聖堂や修道院で生活する聖職者たちには一群の騎士や従者、従僕がともない、彼らはさまざまなサーヴィスを提供した。これら宗教関係者の消費生活をまかない、宗教施設の設備や備品を供給するために、都市集落には多くの手工業職人が集住した。
職人層の家族の衣食住のために小規模な商品交換もあったため、零細な商人たちも住み着いていた。これらの住民の生活は領主である聖職者によって統制され、市外の建物や工房・住居なども教会の所有だった。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
◆全体目次 章と節◆
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成