さて、教皇庁の移転は、すなわち巨大な利権=権益のセンターの移転にほかならない。
アヴィニョンに居座った教皇とその政庁は、アヴィニョン市をナポリ王妃から買い取り、そこを中心にして、ヨーロッパ中の教会・修道院(また有力信者)から税や賦課、寄付金をかき集める仕組みを築き上げていった。莫大な富が集積していった。
そうなると、はじめは仮の住まいと思っていたアヴィニョンをローマ教会の総本山らしく、つまり教皇庁所在地としての権威を見せつけるため、市域を城壁で囲み、それまで以上に広壮で豪華な宮殿・庁舎・大聖堂を次々に建設していった。教皇庁による都市建設は、教会と教皇庁が絡む利権の誘導であり、利権の中枢の移動でもあった。
そうなると、それまでローマに留まるべきかアヴィニョンに移るべきか日和見をしていた多数の高位聖職者や教会御用達の有力商人たち(商会の支店)、彼らに寄生する有象無象が大勢押しかけてくる。教皇庁は、ローマから移ってきた多数の聖職者とその取り巻きたちの宗教生活や贅沢をまかなうために、さらに巨額の収入を確保しなければならなくなる。
そのために、教皇庁は、僧や領主(または親族)を各地の司教や修道院長のポストに叙任する代わりに(見返りとして)多額の税(賦課金)の支払いを求めた。つまり、教会役員の官職を高額で売りつけるというボロい商売を大っぴらに展開した。
さらに、貿易や金融で巨額の富を獲得して奢侈に奔り、聖典の言葉とのあいだの乖離矛盾にいささか良心のやましさを覚えるようになった富裕商人や貴族に対して、高額の寄進と引き換えに「免罪符」を売りつけるようになった。神の許しと天国への切符を売りつける、これまた笑いが止まらない商売を始めた。
ヨーロッパ各地の境界や修道院から教皇庁への税や貢納金の送金を取り仕切ったのは、ジェーノヴァやピーサ、フィレンツェなど北イタリア諸都市の金融商人だった。彼らは教皇庁への巨額の寄付や献金によって利権サークルに入り込み、教皇や枢機卿たちを癒着していった。この時代は北イタリア諸都市と遠距離商人層の権力が絶頂に達しつつある頃で、だから、それはまた、北イタリア金融商人層と諸都市がヨーロッパ各地に経済的優越・支配を広げることにもなった。