ほかの記事でも何度か触れたが、イタリアを中心とする地中海世界では、11ないし12世紀には諸都市の商業資本による世界貿易の組織化と産業支配や資本蓄積の仕組みが出現していた。世界貿易を営む富裕な有力商人たちは都市統治の権力を掌握して、周囲の中小都市や農村を、中心都市の支配領域として囲い込みつつあった。⇒中世地中海世界とイタリアをめぐる状況
こうして、北イタリアや地中海沿岸の有力諸都市には地中海世界とヨーロッパのいたるところから富が流入・蓄積していった。都市の富と権力は、周辺の貧しい農村や小都市から、貧民や没落し土地から追い出された農民が生きる糧を求めて流入していた。
都市には人口が集積した。だが、貧富の差が激烈な階級社会だった。豪勢な邸宅が並ぶ目抜き通りの裏側や裏路地、貧民屈には、窮乏者があふれていた。一方には自分の権勢を誇示するために、途方もない贅沢や奢侈に奔る階級・身分がいて、他方にはその日の食糧にも事欠くプロレタリアートがひしめいていた。
こういう社会のなかで、ローマ教会と教皇庁は独特の権力組織を形成していた。教皇庁は(ローマを中心とする)イタリア半島中央部にある奇妙な君侯権力だった。その支配地や所領は貧弱だったが、ローマ教会に属するヨーロッパ全域の多数の教会や修道院から毎年、税や寄進を取り立てていたため、教皇庁には巨額の貴金属や特産物が集まった。
各地の教会や修道院は、それ自体として聖界の領主であって、司教座都市や広大な所領の君主として振る舞っていた。そういう聖界領主が都市住民や農民から収取した貢納や賦課(経済的剰余)のうちの何割かが、教皇庁の取り分として送られていたのだ。
税や賦課の金納化(貴金属貨幣での貢納)が進むにつれて、北イタリア諸都市の商人たちが教皇庁への送金を取り仕切るようになっていった。こうして、教皇庁と貿易・金融商人たちは、相互依存し密接に癒着した権力のブロックを構成するようになっていった。
富と権力が手許に集まると誇示(それを権威や正統性の発現として見せつけ)したくなるのが、人類というものらしい。教会や教皇庁また然りだった。広壮な聖堂や伽藍、教会堂、その内部には目を射抜くような豪勢で金ぴかの装飾品や大理石の彫刻。そのうちに、天井には教会の理想を示す天上界の絵が描かれるようになる。壁には装飾と色鮮やかな壁画。
しかし、ローマ帝国以来の教会の聖典や教義、戒律には、「聖職者は清貧たるべし」「権勢に奢るものは滅ぶべし」「持てる者は持てざる者に分配せよ」などというスローガンが満ちている。
ことに修道会は、4世紀以来、ヨーロッパの辺境に赴いて農耕地の開墾・開拓、農村建設を指導してきた。識字階級としての修道士たちは、農民に農法・栽培技術を丁寧に教えたり、都市ではガラス製品や金属製品、衣服などの製造技術を職人たちに伝授して都市集落の建設と都市生活の環境整備に努力してきた。建築土木の技術を伝授したのも、修道士たちだった。
そうした努力や自己犠牲の積み重ねによって、ローマ教会は多数の人びとの尊敬や威信を集めてきた。
ところが、教会や修道院の指導者・役員は、都市や農業の発達がもたらす富の支配者となっていった。農民やフィールドワークの修道士たちが開拓した豊かな農地は、やがて修道院や教会の所領となり、領主としての聖職者たちは、農民に貢納や税、賦課の上納を強制するようになっていった。それが、中世社会の(支配者側から見た)規範であったから。
当時のヨーロッパには、国としてのフランスもドイツもイタリアもなかった。フランスもドイツも数百にも及ぶ分立的な領主圏(領邦)に分裂していた。イタリアも多数の都市国家や侯国に分裂していた。ことに、イタリアはローマのわずかに南方にナーポリ王国があったが、その王位は1266年以来、カペー家の縁戚のアンジュー家が保有していた。
つまりは、ローマには南からフランス王族の威圧が加えられやすかった。
そして、ローマから北の地帯は「ドイツ王」=「神聖ローマ皇帝」(ドイツ地方の有力君侯)の威圧を受けていた。