1327年の冬、北イタリア、ピエモンテ(トーリノの西方)の山中にある修道院に2人の僧が訪れた。初老の修道士とその弟子の見習い修道士だった。
年配の修道僧の名は、ウィリアム・オヴ・バスカーヴィル。フランチェスコ派に属しているが、オクスフォードでロジャー・ベイコンの影響を強く受けたため、経験的知識によって抽象的概念をとらえ直すという方法論に立っている。ヒベルニア(アイアランド)出身の長身、鋭い眼差しをしていて、いかにも学究らしい風貌。
弟子の方は、まだあどけなさを残す美男の若者で、アドゥソ・ダ・メルク。神聖ローマ皇帝ルートヴィヒの家臣であるイタリア貴族メルク家の三男坊で、ベネディクト派に属している。
2人は雪の積もる山道をたどって、古い由緒のあるベネディクト派のこの修道院に到着した。ウィリアムは遍歴の修道僧で、ヨーロッパ各地の修道院やようやく形をなし始めた大学を巡り回りながら、主に古典書籍の研究をおこなっている。
大学 collège / collegio は、もともとはその名称のとおり、神学研究者たち――はじめ、その大半は修道士だった――の同志的組合団体(同僚の集まり)だった。古代ローマ帝国期からのラテン語で記録された学術や工業・農業技術、芸術・文化などの知識や教養は西ヨーロッパでは教会関係者(主に修道士)によって継承されていた。
彼らはグレコローマン時代に宇宙や世界の認識について体系的な思想や哲学理論があったことを知り、ローマ教会の教義や神学、そういう思想や理論によって普遍的な世界観として体系化しようとした。そのためにラテン語・ギリシア語の古典古代の古典書籍の研究をおこなった。そのなかには、数学や音楽、医学、化学・力学、建築学、法律学、行政手続知識なども含まれていた。
多様な思想や知識が学術として体系化される過程で、それらはメタフィジーク(基礎的・原理的な哲学理論の研究で「形而上学」と呼ばれる)とフィジーク(自然学や実務知識、経験科学・工学などで「形而下学」と呼ばれる)に区分された。なお、「形而上」「形而下」というのは『易経』のなかの用語で、日本では明治時代に metaphysique / physique の訳語として導入された。形而上とは抽象的で形にとらえられない事柄、形而下とは個別具体的な形として識別できる事柄を意味する。
イタリアから始まった大学創設の動きはヨーロッパ各地に広がった。研究拠点や、古典古代の文書や記録、資料・文物などはヨーロッパ各地に分散していたので、学究修道僧たちは各地を遍歴して研究し、そのためにさらに各地にコレージュ団体が組織された。やがて各地方(ボローニャ、フィレンツェ、パリ、オクスフォードなど)ごとにコレージュが集合して大きな団体を結成し、より総合的な研究機関 université / universita となっていく。
各地を遍歴する彼らは、同時にヨーロッパ各地在来の文化や知識をラテン語文字記録に収録し、キリスト教神学・世界観の体系と関連づけ、その体系のなかに位置づけようとした。
このたび彼がこの修道院を訪れたのは、アヴィニョンの教皇との対立関係のなかで、政治的に皇帝派と同盟を組んだフランチェスコ派の密命を帯びていたからだった。
というのも、翌週、この修道院で、教皇派とフランチェスコ派を中心とする批判派との神学論争がおこなわれることになっていたからだ。この論争は、批判派の中心的人物、ミケーレをアヴィニョンの教皇庁に召喚するための段取りについて両派の折り合いをつけるはずのものだった。
ローマ教会組織の内部での権力闘争のなかで、ベネディクト派は――あまりに権力と富に奢る教皇派に対してかなり批判的だが――戦術的に中立的・中庸的な立場を取っていたことから、激しく対立する両者の争点を噛み合わせ、妥協の道を探ろうとしていた。
このような状況を理解するためには、当時のイタリアの政治的状況ならびに、ローマ教会・教皇庁をめぐる政治的力関係、そして神聖ローマ皇帝(ドイツ王)のイタリア遠征政策などの絡み合いを押さえておかなければならない。