こういうバブリーな教会経営が可能となったのは、ヨーロッパの経済活動そのものが危うい膨張を続けていて、そのピーク(直後に未曾有の危機が訪れることになる)に差しかかっていたからだ。
西ヨーロッパでは11世紀から、急激に森林を切り開き農地を開墾開拓して、14世紀までには、20世紀の状態に近いほどの広大な面積の耕地が出現したという。圧倒的に広大な森林に取り囲まれていた人類の生態系は、あらかた森林が破壊され、耕地や草原となるような生態系に乱暴に改造されてしまった。
つまりは、森林の周囲の耕地に水源や(堆積した腐植土による)肥沃さを提供していた環境が破壊されてしまったのだ。
しかも、12世紀の後半からは、それまで8世紀から持続していた温暖な気候(温暖化)が突如終焉して、急速な寒冷化が始まった(19世紀前半まで続く)。
生態系の破壊と気候変動で、土地の肥沃度・生産性は目立って低下していった。連作障害もあっただろう。不作と飢饉が繰り返した。食糧生産・供給量は急速に逼迫していった。
それまでの農業発達と食糧増産によって、都市と農村では著しく人口が増加していた。14世紀までにヨーロッパでは、7、8世紀の人口の3倍近くになったという推計値がある。とりわけ、商工業の成長で都市には人口が集積していた――現代に比べれば取るに足りない人口だが。
そこに食糧危機が起きた。食糧価格が高騰した。貧困な(つまり大多数の)民衆は必要最低限度の食糧すら手に入らなくなった。圧倒的多数の人口が栄養不足で、免疫力を急速に失っていった。しかも、当時の都市では、塵芥や汚物・排泄物が路地や路地の溝に投げ捨てられていて、衛生環境がきわめて劣悪だった。
餓死者や病死者が目立ち始めていた。人口危機の兆しが目立っていた。
ヨーロッパの都市と商業は、イスラムの後を追いかけて膨張していったが、医療衛生技術・知識や下水道設備が高度に整ったイスラム都市と比べて不潔不衛生きわまりなかった。
他方で、ヨーロッパ遠距離貿易のネットワーク・経路――航路や陸路・運河――は急速に発達し、商用旅行や巡礼などで人びとの長距離の動きが活発化し、諸港間・諸都市間の物流も増大していた。
こうして、感染症がひとたび発生すれば、またたくまに人の移動や物流に沿って広がり、爆発的に蔓延するのは必然的だった。
14世紀半ば、ついに黒海周辺(クリミア)から広がり始めたペストが全ヨーロッパを襲った。しかも、1度ではなく、波状的に繰り返してやって来た。この世紀に、ヨーロッパの人口(推計1億)のうち少なくとも3分の1が死滅したという。イタリアの大都市では、住民の過半数が死亡したという記録が残っている。
このほか天然痘も流行した。
農業=食糧危機のなかで死亡率の増大はすでに始まっていたが、疫病の猖獗は人口危機に「最後のとどめを刺した」というべきか。
1320〜30年代は、こうした危機の直前だった。⇒中世晩期ヨーロッパの経済と危機について