ところで、この物語の登場人物たちは、国籍とか国境システムがなかった中世ヨーロッパの縮図として、じつに多様な地方の出身者からなっている。まず、ウィリアムはアイアランドの貴族の子弟だろうし、アドゥソはバイエルンの貴族の末弟。
そのほかの人物設定を見ておこう。
@アッボーネ: 修道院長でイタリアの名門家系の出らしい
Aホルヘ: 役職を引退した長老。ホルヘ・デ・ブルゴスという名前のとおり、カスティーリャ人。ブルゴスはカスティーリャの有力商業都市。ホルヘは聖者名で英語名のジョージ、ラテン語のゲオルギウス、ドイツ語読みのゲオルクに当たることに注意。このカスティーリャ出身の長老は、古典古代から中世まで古今の文献についてウィリアムもかなわないほどの該博な知識を持つ。
Bマラキーア: 文書館長でドイツ出身。イタリアの宗教界での立身出世を望む、小心翼翼のマリオネット(操り人形)
Cベレンガーリオ(イタリア語読み): カタルーニャ語読みではベレンゲール。したがってカタルーニャ人だろう(バルセローナの有力家門出身か)。
Dベルナール・ドゥ・ギュイ: いかにも名門家系のフランス人らしい名前。
Eヴェナンツォ: サマリア人(北アフリカ出身)。頭脳明晰で野心満々の若者。
Fサルヴァトーレ: イタリア語読みで、意味は「救世主」。エスパーニャ語読みだとサルバドール。貧しく粗野だが純朴なイタリアの下層民衆の典型。
Gレミージョ: 同上。だが、巧みな世渡りに長けている。目先の欲にかられるが、強者や権力にはとことん弱いというか軟弱。
修道院での人びとの階層序列は、一番上が院長、次いで文書館長(この役に就いた者が次期院長になるらしい)、そして普通の修道士の順。修道士は、それぞれ僧院の需要を満たすための職務部門(厨房係、鍛冶係とか、農耕)を指揮監督する。その下に、見習い修道士ないし修練士、さらに現場勤務の職人としての助修士ないし雑役係。最底辺には所領の小作農民や隷農がいる。
映像は折に触れて、僧院内部のこの身分序列というか階層序列を突き放した目で描き出す。
舞台は山中の有力な修道院。立派な聖堂(礼拝堂)や集会所、食堂・厨房が連なる主棟部。そして、中庭を挟んで、高い6つの塔を持つ、まるで「バベルの塔」のでき損ないのような巨大な文書館の建物。2階以上は書庫で、1階は写字室と閲覧室、地階は宝物蔵となっている。文書館の後ろは急峻な崖。それ以外の館の周囲は側壁で囲まれている。
外部から隔絶されている修道院というこの設定は、まさにウイリアムやアドゥソなど外部の人間の耳目から隠しておきたい秘密がこの修道院にあるという状況を暗示している。そして、その秘密の核心には、長老ホルヘが深くかかわっていることを。
ウィリアムたちは客人として宿坊の1室に案内された。
宿坊の窓から聖堂の裏の墓地を眺めたウィリアムは、雪の積もり方や地面の土の色から見て、最近埋葬がおこなわれたばかりの墓があること、すなわち最近、この僧院で死亡者が出たことを見抜いた。
しばらくして院長が挨拶に訪れた。アッボーネはウィリアムを抱擁して受入れの意思を儀式的に示した。アドゥソは自分が属するベネディクト派の有力な上位者への尊敬と恭順の意思を示すために、院長の大きな指輪に口づけした。これらの儀式化した行為は、中世において、言動の形式=様式が地位や序列の上下関係を示し、かつ当事者が相互にその関係を明示的に確認・受容するプロトコルなのだ。
挨拶が終わって、院長が部屋を出て扉を閉めようとするとき、ウィリアムは「最近、この僧院で死去した者がいますね」と問いかけた。遍歴の修道僧の鋭い洞察力・推理力に院長は思わず嘆息し、ある決心をした。
ある朝、塔の下の崖斜面に倒れていたアデルモ、その怪死の真相の調査を依頼しよう、と。
こうして、ウィリアムはアドゥソを助手にして怪死事件の捜査を開始した。
けれども、院長は、ウィリアムの調査を非公式なものにとどめ、それゆえ、彼にはそのためのしかるべき権限を与えないようにした。つまり、修道院の現行のしきたりや掟、不文律、慣行などの規則の範囲内で、それに全面的にしたがっての調査に限るというわけだ。「外部のものが知ってはならないことは知ってはならない」ということだ。僧院内の掟は、ウィリアムの調査を妨げることになる。
ウィリアムの捜査を阻む障壁の最たるものは、文書館の書庫への立ち入りを禁止する掟だった。書庫への立ち入りが許されているのは、院長のほか、館長マラキーアと副司書のベレンガーリオだけだった。