さて、1314年に教皇クレメンス5世が死去した。だが、フランス王の権力づくの沙汰で教皇庁がアヴィニョンに移転したという異常事態のなかで、新教皇選出の手続きが円滑に進まなかった。紛糾と混乱のうちに2年が過ぎた。
そして、1316年、アヴィニョンでコンクラーヴェが開催された。だが、そこにはフランス王によって恐ろしいほどの威圧がかけられていた。甘言に釣られて集まった枢機卿たちは、「虐殺の恫喝」に近い状況のなかで、わが身可愛さに、フランス王の覚えめでたいジャック・ドゥ・カオールを新教皇(就任後、ヨハネス22世を名乗る)に選出した。
この男は、フランス王の機嫌を取ることに長けていて、つい先頃も、神殿騎士修道会(修道騎士団)の財産を王権に没収させるために、騎士団長に冤罪を着せて虐殺したばかりだった。
新教皇ヨハネス22世は、莫大な資産と権威を持つアヴィニョン教皇庁を握り、なおかつヨーロッパで最有力の君侯=カペー王権の後ろ盾を得て、絶大な権力を教会組織に行使することになった。
とはいえ、悪名高い新教皇と腐敗堕落した教会・教皇庁に対して、さまざまな方面から批判が寄せられた。とりわけイタリアでは、フランチェスコ会やフラーティ(平修道士会)から強い非難が沸き起こった。彼らは、新教皇の権威の外部に新たな信仰活動や神学的的真理探究の場を求めようとした。
これらの主だった批判・異端運動は、14世紀前半にあらかた弾圧・抑圧されてしまった。というのも、どこでも高位の聖職者たちは俗界の権力と癒着して、同じような行動スタイルをとっていたからだ。だが、民衆の不満や怨嗟はどんどん高まり、教会の権威は衰退していった。
混乱するイタリアは、しかし、富裕な都市(広壮な寺院、宮殿、美術品や財宝などに満ち溢れている)が多数ひしめき合っていて、外部の権力者から見れば支配欲を掻き立てる垂涎の的だった。ドイツ王ルクセンブルク家のハインリヒ7世もその1人だった。
彼は1310年、教皇庁がフランス王権によって取り込まれている状況に対抗するために、イタリア遠征を敢行した。そして、ラテラーノ教会で枢機卿から神聖ローマ皇帝の戴冠を受けた。従来は、ドイツ王がイタリアに行軍・凱旋してローマで教皇から帝冠を受けるというのが典礼とされていた。しかし、フランス王権の庇護下にある教皇庁が認めるはずがない。そこで、ハインリヒは、「世俗の権力では皇帝が教皇に優越する」という論理を掲げた。
けれどもハインリヒは、1313年に急死した――フランス王派の陰謀=毒殺という説がある。ハインリヒの跡目を継いだのが、バイエルン公ルートヴィヒだった。ドイツ王の地位を獲得し、さらには神聖ローマ皇帝としての戴冠を狙っていた。だが、フランス王にべったりの新教皇は、ほかの君侯に戴冠させるはずもない。
ルートヴィヒもまた、教皇の手を借りずに皇帝戴冠式を強行しようとした。
1328年には、ローマに遠征してローマ貴族からの推戴を受けて帝冠を授かった。そして、ヨハネス22世の廃位を宣言して、ローマの教皇としてニコラウス5世を擁立した。教皇庁と教皇位は、こうしてローマとアヴィニョンとに並立分裂することになった。
こうしてここに、教皇派と皇帝派との対抗の構図ができ上がることになった。
この対立の構図は、ローマ教会内部での神学論争と権力闘争をも巻き込み変形させていった。アビニョン教皇に批判的なフランチェスコ派や異端派は、政治的・戦術的に皇帝派に与することになった。この物語の背景にある状況は、こういうものだった。