近年(2008年頃まで)の日本人は、ハリウッド(風)映画ばかりに馴染みすぎて、重層的な歴史の深みをもつヨーロッパ映画には、あまり関心を向けなくなっていた。アメリカナイズされた文化に影響されすぎて、ヨーロッパ的な知性や文化、歴史的センスを読み取る力を失っているからだ。
それゆえ、ハリウッドは日本人を軽く見たマーケティング戦略を立てて、極東=日本向けヴァージョンをウィットや「ひねり」のない、底の浅い見世物風にして配給するようになった。
また日本では、アメリカやヨーロッパではかなり好評を博した「ゴッドファーザー V」の面白さや奥行きが、あまり評価されなかった。ヨーロッパや――ヨーロッパ文化と結びついた――アメリカの歴史と社会についての知識があまりに乏しかったせいだ。それをフォロウする映画解説や評論にも見るべきほどのものがなかったせいかもしれない。
そのうえ、20世紀末までヨーロッパの映画陣自体が、興行収入のために、ハリウッドのエピゴーネン(模倣)になりつつあるという傾向も目立っていた。だが、それは行きづまったたため、21世紀になると独特の模索が試みられてもいる。
ひょっとすると、アメリカ映画の主流(世界的な配給権を保有する巨大資本が支配する分野)は、まだヨーロッパや日本がかつてのアグレッシヴな経済成長がふたたび可能になるかもしれないという幻想を抱けた時代の文化なのかもしれない。その幻想が潰えた現在、新た質の映画が求められているのかもしれない。
とはいえ、今回考察する作品『薔薇の名前』は、とりたてて新たな質をもつ作品だというわけではない。だが、ヨーロッパの歴史と文化の厚みを実感できるものだ。時代の好みが変わっても、十分に鑑賞に堪える映像物語だ。
私の好みから見て「良い映画」――どこの国の作品であろうとも――はクラシック音楽と似ている。「理解して楽しもう」と思うと、音楽の知識に加えて、楽曲の時代背景や作曲者の意図や心理、その時代の社会状況を学ばなければならない。その学習には多少の忍耐や労苦がともなうことになるのだ。このサイトは、その忍耐と労苦の道案内のためのものだ。映画を分析の対象とし、知的な格闘に案内しようとしているわけだ。
さて、あらすじは前のペイジに記したが、難解な歴史映画なので背景についてのごく簡単な予備知識を示しておく。
この物語では、ベネディクト会の修道院の文書館の蔵書が連続怪死事件の焦点となる。ベネディクト派は中世ローマ教会の主流派のひとつで、多数の修広大な道院所領を保有していたことから、イタリアと地中海地域では12世紀に貿易と都市文化が急成長すると、いち早く世俗利益と融合し、富と権力をめぐる争いに加わった。地中海世界貿易に向けた所領経営を追求し、イタリア商人による金融システムとも深くかかわっていた。
教皇庁と教会は富と権力を握る階層――都市君主や富裕商人――と結びついたため、教義や戒律、教会組織の運営は、そういう特権階層に取り入るものとなり、一般民衆から乖離していった。
あまりに俗化が進んだため、この会派のなかからローマ教会のあり方に疑問や批判を提起する急進的な改革運動――クリュニー派など――が発生し、正統と異端をめぐる激しい神学論争、教義論争、戒律論争が展開されることになった。教会の権力者や教皇庁は、改革派を異端として弾圧排斥しようとしたのだ。⇒中世イタリアにおける教会と異端運動にかんする情報
ところで、当時のヨーロッパのほとんどの書籍は、「羊皮紙」に筆写したペイジが本文となっていた。「紙」に文字や図案を印刷した書籍というものが出回るのは、まだ先のことだった。
羊皮紙とは、ヤギやヒツジの皮を石灰でなめし、軽石や研磨用の石で磨いたり圧抵して、薄く滑らかにしたもの。石灰でなめすのは、漂白と酸化防止のためで、これによって、羊皮紙は1世紀を超えて保存できるようになった。
そこに染料や顔料からできたインクで文字や図案を書き込んで内容をつくった。羊皮紙からなるたくさんのペイジを綴じて、これまた高級な堅い皮の表紙で装丁した。これに倣って、近代になるとハードカヴァーブック(上製装丁本)がつくられるようになった。
それゆえに、書籍というものは、ものすごく高価な奢侈品だった。
何より貴重な原本を有力な修道院や教会から(相当の礼=見返りと引き換えに)借り出して、内容をすべて筆写で写し取らなければならない。美しい字や絵、図案を書く熟練した技能者や画家(当時はほとんどが修道士)を大勢使って、書籍の内容を原本同様またはそれ以上の品質で再現したのだ。
したがって、そうした貴重な書籍を読む機会を求めて、多くの優秀な学究修道僧たちが命を賭けて、ヨーロッパ中に長く危険な旅=遍歴を重ねることになったのだ。
この映画では、重厚堅牢な建物のなかに文書館があって、係だけが入室できる書庫と大勢の修道士が閲覧する部屋、そして写字室(写本室: scriptorium )などがある。この写字室(写本室)で、原本からの筆写や細密画の挿入とか、必要に応じて翻訳――原書はギリシア語、ラテン語、アラビア語、ヘブライ語など――がおこなわれ、そのために有能な専門家としての僧たちが毎日作業(課業)にいそしんでいた。