ウイリアムをこの修道院に向かわせることになった、アヴィニョン教皇派とフランチェスコ派との神学論争。この対抗は、どのような政治的環境のなかで展開しているのか。そして、連続怪死事件をめぐって、「名探偵」ウィリアムがどのような状況のなかで調査を進めることになったのか。この修道院の仕組みと登場人物たちの配置・相互関係はどういうものか。これらの問題を一瞥することにしよう。
さて、13世紀以降、急速に富の集積地となったイタリア諸都市の上級聖職者たちの奢侈や行動スタイルに対して、農村や都市の貧民街区でフィールドワークする修道僧たちや教区司祭たちからの不満や批判が目立ち始めた。
というのも、富裕な都市門閥階級は現世俗世の欲望充足やあくなき利潤追求に没頭するあまり、あるいは都市権力の行使や豊かな暮らしにすっかり馴染んで、教会の規範や理想、戒律をないがしろにし始めたからだ。都市の門閥あいだには、熾烈で血なまぐさい権力闘争・紛争の嵐が吹き荒れることもあった。
教皇庁の幹部や司教たちは、こうした動きを戒めるどころか、自らも門閥のメンバーとして奢侈に溺れ、権力闘争に血眼になっていた。
他方で、圧倒的多数の庶民・下層市民=貧困層は、その日の糧を確保するための過酷な仕事に追われて、ローマ教会が説く生活の理想や信仰を顧みる余裕がない。
そして、多くの都市では、富裕者と下層住民とのあいだの階級闘争があらわに繰り広げられるようになった。
都市の下層民衆は、都市の支配者としての上級聖職者たちにも不満や非難を向けることもあった。飢饉や食糧危機が起きるたびに、都市では下層民衆の蜂起や反乱、プロテスト=異議申し立てなどの騒擾が発生した。
教会と庶民階層との乖離・反目を懸念する修道士や教区司祭たちのなかから、民衆の苦悩をともに悩み、彼らの要求や不満を修道会や教会の運営や行動スタイルに反映させていこうとする、改革運動・革新運動が起こり始めた。
こうして、イタリア全域や(今日の南フランスの)ラングドック、プロヴァンス地方では、教会批判や異端運動が盛んになった。教義の内容や聖典解釈いついての問題提起は、3世紀のちの「宗教改革」よりもはるかに先鋭的で真摯だった。
中世においては、修道院は聖界の領主であって、所領で働く多数の農民を支配していた。修道院そのものは、そこに数十人から大規模なものは100人を超える人びとが聖務に務めている、小さな都市集落をなしていた。
それゆえ、修道僧の衣食住をまかなうために、厨房係の下級の僧(助修士)とか、鍛冶や建築土木関係の専属の職人たちがいた。こういう人びとの食糧となる農産物は、所領の隷属農民(多くは小作農民)が生産した穀物や果物、野菜、葡萄酒の一定部分を小作料=賦課として納めることによって、まかなわれていた。
修道院は、所領内の農民家族の生活に必要なパン焼き釜や粉挽き水車などの設備を設営していて、村人にその使用を強制してかなりの額の使用料=利用税を取っていた。
それでも、概して、教会の規範や倫理によって、修道院領主の農民支配や賦課の取り立ては、一般の領主層よりもずっと穏やかだったという。
ところが、この映画では、修道院敷地に暮らす小作農民、近隣農民は、修道院による厳しい搾取=収奪によって生産物の大半を取り立てられてしまい、酷い貧困に悩まされていた。大勢の小作農たちは、たった1つの小作小屋のなかに、男女の区別もなく、家畜(鶏や豚、ヒツジなど)といっしょに寝起きしていた。
そして、日々の食糧にも事欠き、厨房係が厨房外に捨てるゴミや残飯を競い合って漁って食べていた。清貧と自己犠牲を説くベネディクト派の修道院が、これほどに酷い農民抑圧と搾取をしている。商業が発達したイタリアでは、教会組織の農民収奪がひどかったのだろうか。それにしても、これほどひどい振る舞いは、おそらく時代状況を示すための演出だ思う。