薔薇の名前 目次
聖歌が響く僧院で
原題について
見どころ
あらすじ
ヨーロッパの歴史映画として
予備知識
主なキャスティング
連続怪死事件とその真相
  幻の名著
  アデルモの死
  ヴェナンツォの死
  セヴェリーヌスの死
  マラキーアの死
  書庫での対決…
歴史の皮肉 ルネサンスへの動き
物語の発端
イタリアと教会をめぐる地政学
教会批判の噴出と異端派
領主権力としての修道院
アヴィニョン「幽閉」
教皇庁移転の意味
中世晩期の「バブル」
アヴィニョンの新教皇選出
教皇 vs 皇帝…ローマ教会の分裂
ウィリアム修道僧の立場
謎解きの舞台装置
  登場人物と舞台設定
  「名探偵」登場!
僧たちの連続怪死の背景
死への誘い ホルヘの策謀
サルヴァトーレとの出会い
レミージョ
アドゥソと村娘
修道院での神学論争
融通無碍なる教会運営
異端審問法廷
最後の対決
  地獄の業火…農民反乱
原作と映画との違い
原作者エーコの意図

原作と映画との違い

  映画作品は、独立の映像芸術として、原作をかなり脚色し組み換えてある。物語としての主な違いは次のとおり。原作では、
@ウィリアムは、教皇庁に幽閉されたことも拷問されたこともない。
Aウィリアムとアドゥソが、ホルヘと対決するために書庫の秘密の部屋に入り込む直前、修道院長アッボーネはホルヘの罠にかかって「死の部屋」に閉じ込められてしまった。間もなく死ぬはずだった。生き残っても火災で死んだはずだ。
Bベルナールから異端として有罪とされた3人は、この修道院ではなく、アヴィニョン教皇庁に移送され、そこで火刑に遭う運命だった。
Cベルナールは、3人を護送する弓兵隊とともにアヴィニョンに無事帰還した。
Dそれゆえ、修道院所領の小作人や農民たちの反抗・蜂起はなかった。

  この映画は、異端審問やら聖界貴族(所領の支配者)としての修道院やら、支配され収奪される小作農民の立場やらを端的に描くために、ストーリーを変えたのだろう。

原作者エーコの意図(勝手な憶測)

  映画は原作から独立した作品ではあるが、エーコの描きたかった世界、問題群を想起させるに十分なほどに良くできている。だが、その分、物語や背景を理解するのは大変な作業になる。そんなことから、ここで私が敢えてこの作品を取り上げてつつき回してみたしだいだ。
  こうして映像物語を記述してみて、私にとってもようやく映像の描く物語や世界の輪郭が浮かび上がってきた。
  主要なテーマとなっている問題は、信仰あるいは人びとが「真理」とか「善」「あるべき理想」だと考えていることは、異なる立場から見ると、えてして独りよがりの偏った見解であるということだろう。悪い意味での「ファンダメンタリズム」だ。
  ある個人の思想や価値観は、どれほど普遍化してみてもしょせん個人の考えにすぎない。ところが、権力や権威をもつ人びとは、往々にして、その個人の考えを肥大化させてあらゆる人びとや社会全体に妥当すべき価値や尺度(正義)として押し広げ強制しようとする。
  このファンダメンタリズムは、平然と人びとの生命や生活を脅かし、押し潰していく。


  おそらくエーコがこの原作の草稿を準備し構想を練っていた頃、イタリアでは、戦後長期間続いた統治体制とキリスト教民主党主導の保守政治によって社会は行き詰りつつあった。他方で、たしかに経済は拡大し金融バブルも続いていた⇒『神の銀行家たち』参照。だが、まもなくバブルは破裂し、金融危機とともに政界のスキャンダルが続発し、政治は麻痺し、赤い旅団によるテロも頻発していた。
  イタリアではすでに長いあいだ、政治は自己目的化し、人びとの生活の安定よりもむしろ有力諸集団による利権闘争の手段となっていた。「冷戦構造」がそのような政治を正統化する口実となっていた。
  権力を握る者たちは、自己の価値観と世界観(利害・利権というべきか)にしがみついて、真摯な対話を拒否していた。「極左」テロリストたちもまた、腹いせや復讐のように、平然として一般市民の生命や生活を破壊して自己の存在をアピールしていた。
  当時、イタリア共産党が、左翼というよりもむしろ「中庸派」として「歴史的妥協」とか「相違を超えた対話」という課題を提起していたのは、社会秩序の崩壊を食い止める――人びとの安定した生活を回復する――ための1つの試みだった。

  認識論や記号論を極めたエーコもまた、別の立場から、1つの固定した立場への執着の無意味さというか弊害を指摘したかったのだろう。以下のように・・・

  旧弊な支配層の権力への執着は、何らかの象徴や記号(コードやプロトコル)の掲示をともなっている。やがて、それは本来の内容=実態から離れて、象徴や記号それ自体の呪物的崇拝フェティシズムになっていく。人びとと社会全体にその象徴の受容を押しつけようと力を動員するのだ。その結果、権力者たちの価値観や尺度は、ますます民衆や社会からかけ離れた内容になっていく。
  こうして生じる危機、その危機の深化のなかで、ますます権威や地位にしがみつくようになって、力を振り回すことになる。
  エーコは、その醜悪さおぞましさを指摘したかったのだろう。
  この作品では、人間生活のなかでの「笑い」「ユーモア」の現実に即した認識や対話を拒否し、ただひたすらアリストテレースの「詩論」(物としての写本)を隠匿することだけに執着する偏執の恐ろしさが描かれる。

  ところで用語についてだが、おそらくローマ教会は腐敗した教会指導層を批判する異端派との闘争や、2世紀のちのプロテスタントとの対抗のなかで自らを「カトリック」=正統派教会と位置づけたのだろう。カトリックとは、すなわち「アウトドクシー( authodoxy )だ。
  対抗する勢力、批判勢力が出現しなければ、それゆえまた自らの優越が失われるかもしれないという危機感がなければ、「カトリック」として自己定義するはずはないだろうから。正統派の対極は、異端すなわち「ヘテロドクシー( heterodoxy )」だ。
  アウト(本来自らのもの)とヘテロ(異物なるもの)の並存対抗とは、2つの相反するドクスの対峙、すなわち「パラドクス」であって、互いに相手を排除し合う存在が〈1つの世界〉のなかにある状態だ。対話が成り立たない状態だ。というのも、対話・対論・論争のなかでは、隠しておきたい自らの弱点が暴かれてしまうからだ。

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