さて、ヴェナンツォの死の翌日から、ウィリアムとアドゥソは修道院のあれこれの施設を調べ回るようになった。アドゥソは聖堂の周囲を調べて回った。外壁には恐ろしい形相の魔物たちが彫刻されていた。日差しが差し込まない奥まった回廊に彫られた魔物は、昼日中でも恐ろしかった。
その魔物たちの列のすぐ近くで、アドゥソは容貌魁偉な男に出会った。その男は、どこの言語か不明な言葉を口ずさみながら、アドゥソを脅すように近づいてきた。あるいは、自ら何らかの「やましさ」を覚えて、調査を妨げようとしたのかもしれない。
その男がサルヴァトーレだった。
サルヴァトーレが呪文のようにアドゥソに投げつけた言葉のなかに、教皇が派遣した軍によって殲滅させられた過激な異端派の用語(呪文)が含まれていた。耳聡くそれを聞きつけたウィリアムが近づいてきて、サルヴァトーレに詰問した。
「お前はドルチーノ派に属していたのか」と。
ドルチーノ派は、教皇庁によって弾圧訴追されている異端派だったから、サルヴァトーレは後難を恐れて、問いかけに否定の返答をしながら逃げ出した。
サルヴァトーレはイタリアの貧しい農村の生まれだった。最下層の小作農民の息子だった。地主の搾取が厳しくて、不作や飢饉になれば、さなきだに食糧事情は劣悪だったので、多くの餓死者や病死者が出る寒村だった。サルヴァトーレはまだ幼い少年時代に、そういう生活から逃れるためにこっそり家を飛び出したのだった。
だが、まともな職業に就いて技能を磨くチャンスもなく、流浪する貧民の群に混じり、さらには生きるために野盗の群に入ったこともあった。だが、あるとき僧院の下働きの小僧として雇われ、修道院の生活のしきたりや修道僧の真似事を覚えた。
やがて、遍歴托鉢の修道僧に付きしたがって暮らすようになった。
だが、文字や言葉の教育を受ける機会はなく、文盲だった。そのため、彼の話し言葉は、生まれた村の方言や放浪した町や村で聞きかじった方言、僧院や遍歴僧の集団のなかで聞き覚えたラテン語や、フランス各地の方言、ドイツの方言とかカタルーニャ語、カスティーリャ語などが入り混じった不思議な言葉使いになった。
もっとも、この当時のヨーロッパには、フランス語とかエスパーニャ語、ドイツ語などという国民的言語( national languages )は存在しなかった。たとえばフランスでも、オクシタン語とかラングドック語、ガスコン語などの多数の地方語がそれぞれに並存していた。
フランス語やエスパーニャ語などの、独特の文法体系をもつ国民的言語は、自然発生的に生まれたものではない。集権化を推進する絶対王政が出現して、他国との対抗関係のなかで、自国の優位を意識させ、域内人口の国民的統合を組織化していくための政治的・文化的・イデオロギー的な装置=言語として意図的に練り上げられて形成されていったのだ。
そういう場合に、たとえば「アカデミー・フランセーズ」などという王立の学術団体は、王権直属(資金も出してもらっている)装置として、地方語の支配的言語への包摂・従属を意図して文法や用語法を編み出していったのだ。
近代の国語・公用語は、政治的・イデオロギー的な構築物なのである。
さて、サルヴァトーレが遍歴修道士の真似をして放浪した13世紀の末からは、すでに述べたように、イタリア・地中海地域ではローマ教会や教皇庁への批判やら異端運動、そして民衆の自然発生的な騒擾や蜂起などが頻発し始めた時代だった。その多くは、抑圧され搾取される人びとの本能的な抵抗だったのかもしれない。
若者だったサルヴァトーレも、そういう異端運動にのめり込んだ。若い情熱や鬱憤のやはけ口にしたのかもしれない。遍歴の異端運動は、貧民や流浪者の多くを巻き込んで町から町、村から村を移動したようだ。ごく一部の確信犯的な指導者の周囲に集まった圧倒的多数の群衆は、「ルンペンプロレタリアート」だった。
したがって、こうした異端運動には迷信や偏見、憤懣など不合理な情念や狂信すら紛れ込んでいった。異端の指導者のなかには、都市の掠奪や威圧による脅迫のために、蒙昧な群集を動員・利用しようとした者もいたようだ。
そういうしだいで、サルヴァトーレはいつしか、ドルチーノが指導する異端派の集団のコロニーに迷い込んでしまった。はじめは熱狂に酔っていたが、やがて怖くなって逃げ出すことになった。
異端派ドルチーノ派の用語をウィリアムに聞きとがめられそうになって逃げたのは、危険な異端派に(自らは知らずに)所属した経歴を隠したかったからだ。