13世紀末から、ローマ教会教皇庁は、地中海ヨーロッパ地域で燃え広がった教会批判や異端運動に対抗するため、あろうことか、世俗の権力と露骨な同盟を組み、フランス王権(カペー家)の力を借りて、南フランスから北イタリアでの勢力を回復し、異端派を封じ込めようとした。
とりわけ14世紀になると、歴代の教皇はフランス王権への影響力を強め、連携してアルビジョワ十字軍運動――アルビ派追討――を組織・指導した。「異端」とされたアルビ派が優勢なフランス南部の諸都市を征服しようとしたのだ。
だが、この頃のカペー家は、パリ周辺のちっぽけな王領(直轄地)に逼塞する弱小な領主の1つにすぎなかった。並みの伯爵よりも貧弱な権力しかもっていなかった。王が身分評議会を召集しても、参集するのは、パリとイール・ドゥ・フランス近辺(飛び地フランキア地方も含む)の下級領主たちだけだった。
だが、王家は、ヨーロッパでも(イタリアを除いて)飛び抜けて大きな規模を持つ都市=パリを押さえていた。
ヨーロッパ世界貿易の有力な結節点の1つを掌握するということは、弱小な君侯がガリア平原(フランス)に覇を唱えようと画策するにさいして決定的に重要な条件だった。
まあ、この意味では、13、14世紀には、「フランス王国」は実質的はどこにも存在しなかったわけだ。西フランスはイングランド王家に臣従し、概してラングドック、プロヴァンスは経済的には地中海貿易圏に属していて、政治的・文化的にはパリの王権から独立した圏域をなしていた。そのなかでアヴィニョンだけは、王家の直轄領地で、王権にとってピエモンテや北イタリアへの橋頭保として機能していた。
貧弱な力しか保有していないのに、フランス王としての権威をガリア全域に広めようとするパリの君侯に、教皇庁は目をつけた。つまりは、ローマ教皇庁の支援をことのほかありがたがり、要望を聞きたがる、名目だけの王室を教皇庁の権威のもとに取り込もうとしたのだ。
教皇庁とパリの王は互いに同盟=結託して、王権に楯突く地方君侯領主たちや諸都市に圧力をかけて臣従を求め、ついでに教会=教皇庁に反抗的な都市や地方、民衆を抑え込もうとした。教皇庁主流派に異議申し立てをおこなう南部の諸都市は、またはるかに遠いパリの王権にも楯突いていた。カペー王権と教皇庁はアルビジョワ十字軍運動を組織して、それらの都市を征圧しようと試みたのだ。
「十字軍」という立派な名前が、たかが弱小君主の権力を拡張するために、臆面もなく掲げられたのだ。教皇庁の腐敗堕落もここにきわまれり、ではないか。
要するに、教皇庁は、カペー王権の南フランス・地中海方面への膨張を支援して、社会のなかでの教会の権威――そして教会のなかでの教皇の権威――を回復しようともくろんだのだ。王権は権勢を拡張するにつれて、さしたる軍事力・政治力をもたない教皇庁に圧迫を加え始めた。
1303年、フランス王はローマの南東の都市アナーニで教皇ボニファティウス8世を捕えて廃位に追い込み、その代わりに――枢機卿会議を抱き込み――ボルドー大司教を教皇クレメンス5世に選出させた。しかも教皇とその側近たちは、イタリアの混乱を逃れるために、1309年、フランス王フィリプ4世が差し出した救援の手にすがりついた。王の直轄領に取り囲まれた都市、アヴィニョン(市そのものは王の娘でナポリ王妃の支配地)に匿われた。
ところがその後、すっかり強大化した王権は、教皇が求めるアヴィニョンからローマへの帰還を許さなかった。教皇と枢機卿、多数の聖職者とその従者たちは、こうしてアヴィニョンに軟禁=「幽囚」されることになった。
「幽囚(拘束)」とはいうものの、教皇庁に対する王の待遇は手厚くかつ豪勢だった。教皇領の君主たる教皇は、いまや貧しい田舎町にすぎないローマにあるヴァティカンの荒廃した宮殿よりもはるかに豪華広壮な宮殿庁舎、大聖堂、広大な庭園をアヴィニョンに持つ立場となった。そんな立派な施設があれば、誰も、貧しい田舎都市ーローマになんかに戻りたくなくなる。
教皇がアヴィニョンに逼塞し続けたということは、それだけカペー王権によって手厚く庇護されながら強く拘束されていたということだが、半面、その当時の教皇の力(権威では)紛争と混乱が続くイタリアに戻ることができなかったという状況を物語っている。