さて、いよいよ教皇の使節としての枢機卿一行を迎える日が来た。
ところが、その2日前に、枢機卿の一行には、悪名高い異端審問官のベルナール・ギュイと彼が指揮する弓兵隊が随行してくることがわかった。
ウィリアムはかつて異端審問官をした経験があったが、その頃にベルナールとは深い因縁があった。
異端審問法廷において、被告たちを糾弾するためにベルナールの張った論陣に対抗して、ウィリアムは異端的な行為そのものについては非難したが、被告たち自身については――悔恨・懺悔しているとして――罪を不問にする旨の主張をおこなったのだ。ところがベルナールは、ウィリアムのこの弁論を反教会的だとして糾弾して、教皇庁に提訴した。ウィリアムは断罪されて牢に幽閉され、拷問を受けた。
そして、ウィリアムはついに自説を撤回して、被告の有罪を認めた。ウィリアムは解放されたが、被告たちは火刑に処された。それを契機に、ウィリアムは審問官を辞任した(この話は原作にはない)。
さて、枢機卿の前で教皇派とフランチェスコ派との神学論争がおこなわれることになった。枢機卿は――規則通りの――緋色の華麗な衣装をまとっていたが、恐ろしいほど醜い老人だった。教皇庁の「醜悪な権力」の担い手として、醜い容貌を描き出そうという映画監督の意図が見える。
そして、神学論争も、従来どおりのそれぞれの立場を非妥協的・強硬にぶつけ合うだけの、論争のための論争に終始し、ついには互いに相手を罵り、殴りかかり、つかみ合いになりそうな険悪で醜悪なものになった。
神学論争は、本来であれば一種の対話になり、意見が異なる双方の論点の吟味によって新たな次元の真理に到達するはずのものだったが、ここでは双方ともに頑なに自説に執着するだけで、互いに認識を前進させることを恐れ、拒否しているかに見えた。
ファンダメンタリストたち
ことほどさように、この作品に登場する神学者=論客たちには、ファンダメンタリストが多い。たとえば、
●ホルヘ・デ・ブルゴス●
ベネデゥクト派屈指の理論家だが、笑いとか愉悦を全面的に排除し、皮肉とか反語的な論説をも拒否する。この、人間の実際の生活とか生きる喜びから隔絶した「真理」なるものを擁護するために、この修道院では修道士が何人も死ぬことになった。彼が信奉する「真理」の前には、人びとの生活とか生命は無に等しいのだ。
●ウベルティーノ●
フランチェスコ派の長老論客で、教皇派に対する頑な敵愾心を顕わにする。教皇庁や教会組織の腐敗堕落を論難する。だが、とはいうものの、教会改革の革新運動に民衆が参加できるような理論や活動を見出すつもりは、毛頭ない。彼にとっても、神学論争は、エリートとしての修道士身分だけが担うべきものなのだ。民衆は、指導者としての教会や神学者にひたすら従うべき存在なのだ。
●ベルナール・ギュイ●
アヴィニョン教皇に反対する思想や運動は、いかなるものであれ、非キリスト的な存在として徹底的に排除・抑圧する立場。だが、神学者としては深い知識を備えている清廉潔白の人物で、教皇派の利権や腐敗には絡むことはない。だが、論争での勝利への強い執着がある。
3人とも傑出した理論家で、人格高潔かつ禁欲的だが、おのれが信じる「正しさ」や価値判断の基準を絶対視して譲らない。