ところで、ホルヘ――彼が代表するローマ教会の守旧派――の努力はまったくの無駄だった。実際の歴史では、古代ギリシアの思想家たちの著書は、このあと続々とヨーロッパに流れ込むことになっていた――それがやがてルネサンスへと結実する。流入の経路はいくつもあった。とりわけ主要な経路は3つだった。
その1つは、イベリア(ヒスパニア)からの道だった。
8世紀から12世紀まで、イベリア半島の大半はイスラム勢力によって支配されていた。当時イスラムの科学と文化はヨーロッパよりもはるかに発達していた。イベリア各地のイスラム図書館には、アラビア語に訳された古代ギリシアやエジプトの古典書籍や対訳書・復刻原書が大量に所蔵されていた。ところがやがて14〜15世紀には、レコンキスタ――キリスト教勢力によるイスラム勢力の駆逐と領地奪回運動――の進展でイベリア半島全体がキリスト教諸王権の支配下に入った。
ローマ教会の修道士を中心とする知識人階層は、より進んだイスラムの文化や科学を取り入れるために、古典古代のものを含む多数の書籍をヨーロッパの言語に訳出しようとした。まもなく、そのラテン語訳やエスパーニャ語訳、フランス語訳などの書籍(写本)が多数ヨーロッパに出回ることになった。
ヨーロッパよりも圧倒的に進んでいたイスラム世界の科学知識と古代ギリシア・エジプトの古典は、閉鎖的なキリスト教神学によって束縛されていたヨーロッパの思想や文化に大きな衝撃をおよぼすことになった。
2つ目は、北イタリア諸都市商人の地中海世界貿易ルートだった。
ここでも、北アフリカや中東などの地域で古代の著書がアラビア語に訳されてムーア人の図書館や書店に置かれていたものが、高額で売れるからということで、まとめてヨーロッパ向けに輸出されたからだ。
キリスト教徒とイスラム教徒は時と場所によっては戦っていたが、商人どうし学者どうしはそれぞれの立場で双方の文物・文化の交流に大きな価値を認めていたのだ。ことに商人たちは、大きな商業利潤をもたらすニーズを探り当てれば、それに対応する商品を仕入れて売りさばくことになった。西ヨーロッパの有力諸都市には、アラビアやアルメニアなどの商人たちの通商・居住の拠点があって、そこでは信仰・礼拝の自由が保証されていた。
3つ目の経路は、13世紀〜15世紀、ビュザンツ帝国の崩壊や、そのあとを継いだギリシア人の帝国の混乱――そのあとビュザンツ帝政は弱々しく回復する――から、難を逃れるために西ヨーロッパに多数の人びとと文物が流入したことにともなう動きだった。とりわけ15世紀半ばオスマントゥルコがコンスタンティノポリスを征圧してからは、さらに多くの人びとと文物がヨーロッパに逃れてきた。このことも、古典古代の思想や文化が西ヨーロッパに移転する大きな要因となった。
こうしてヨーロッパに流入した古典古代の書物は、従来のローマ教会の神学や世界観、宗教観の偏狭な限界を明白に知らしめる思想や世界観、方法論を内包していた。ルネサンスの波は打ち寄せ始めていた。
しかも、北イタリア諸都市では、こうした古典古代の思想を研究する仕事は、従来のように修道士たちだけでなく、大学で学んだ知識人層によっても担われるようになっていた。閉鎖的なローマ教会の神学や世界観は、教会組織の内部からも外部からも厳しい批判や再検討を浴びることになった。
その意味では、マラキーアの努力は、押し寄せる大波の前に崩れ去ろうとしている堤防の決壊をほんの少し先延ばししたにすぎなかった。そもそも、教養知識や技術の教会・修道院による独占と、正邪の判断権威の独占のレジームは、ローマ教会と聖職者自身の腐敗と内部対立によって衰弱し、そしてさらに、都市と商業資本の権力と富の力によって終焉を迎えようとしていたのだった。