第2章 商業資本=都市の成長と支配秩序
第4節 バルト海貿易とハンザ都市同盟
この節の目次
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14世紀紀中頃、ハンザ諸都市の同盟がリューベックの指導下でより明確な形と組織を獲得したとき、またもやデンマールク王権(貴族連合)の攻撃がはじまった。デンマールク王はスカンディナヴィア半島南部にも領地を獲得し、ズント海峡を両岸から扼していた。だが、この軍事的衝突のなかで、ハンザ同盟は自らの生き残りと権益維持のために、さらに凝集を強めることになった。同盟の外交的・軍事的指導権はリューベックに帰した。だが、この結集は都市同盟に固有の限界のなかでのものだった。ハンザとデンマールク王権との戦争を見てみよう。
森林と湿地帯に覆われた北ヨーロッパの辺境スカンディナヴィアでは、13世紀に西ヨーロッパを模倣していくつかの王権=王国が形成された。だが王国とはいっても、王の宮廷の周囲に集合した貴族領主たちの軟弱な同盟にすぎず、貴族たちは頻繁に離合集散して同盟を解消しては組み換えたため、王権の盛衰が激しかった。そのたびに領主たちの臣従=帰属先は、スウェーデン王となったりノルウェイ王となったり、はたまたデンマールク王になったりと変化した。
北欧諸王国は、中世ヨーロッパのレジームと同様に、領主貴族たちの人的結合――同盟や臣従関係――からなるもので、諸地方の領土的結合をまったく意味していなかった。この人的結合=盟約関係が解消すれば、たちまち王国の版図は消滅したり大幅に変更されたりした。そして、王位の継承は血縁による世襲制ではなく、貴族評議会による選出によっていた。それゆえ、王権の存立基盤はかなり脆いものだった。
そしてたまたま安定した貴族連合に支えられて強力な王権が成立すると、王たちは周域の征服戦争に乗り出しがちだった。領主たちも寒冷気候帯の所領農地からの貧弱な収入にあきたらず、域外征服による戦利品の獲得のために、王の征服企図に参加することが多かった。だが、戦利収入が少なければ、たちまち戦争は王室の財政を圧迫して統治の危機をもたらすことになった。⇒北欧諸王権の歴史
デンマールク王国では、1332年からの空位時代を経て1340年にヴァルデマー(ヴァルデマール)4世がデンマールク王に即位した。当時のデンマールクは、王室の多大な債務のため領地の大半が抵当として分割され、域内の司教を含む有力領主や域外君侯の支配下に置かれていた。ヴァルデマーの父王クリストファーは有力貴族の反乱によって幽閉され、兄王から相続した巨額の借金を残したまま、人生を終えた。反乱派貴族はユートランド統治をホルシュタイン伯ゲアハルトに委ねた。だが、伯はスコーネ領をスウェーデン王に売却するなどして、デンマールク領統治を収益の手段としか扱わなかったため、まもなく貴族同盟とゲアハルトは敵対することになった。
そんな状況下で、ドイツに逃れていたヴァルデマーは帰還して、王位継承を貴族同盟によって認められた。彼は債務を返済して領地を回復していった。そのための資金の多くは、シュレスヴィッヒ公の娘として巨額の持参金つきで嫁いできた妻ヘルフィッヒの所持金、そして父王から相続したエストニア所領をドイツ騎士団に売却して得た資金だった。これに、農民への課税重加を中心とした税制改革による財政収入がつけ加わった。
王室の権威を強化しようとするヴァルデマーは、運よくロスキレ司教の支援を受けてシュールラン島のコペンハーゲン城と市域の統治権を獲得し、それによってズント海峡を通航する船舶から税を取り立てる権利を得た。しかも、おりしもペストの猛威が荒れ狂った時期で、多くの貴族家系がペストの犠牲となって無主の土地が増えたことも、王領拡大に貢献することとな った。
同じ頃、やはりペスト禍によって人口が激減していたスウェーデン王国も深刻な危機に直面していた。スウェーデン王権は多数派貴族の反乱によって崩壊して、バルト海対岸のメクレンブルク公アルブレヒトを新たな王位に据えた。だが、前王とその息子が反攻に転じ、それにデンマールク王権が肩入れして1360年にスコーネ地方を占領した。
ヴァルデマーは王室の借金返済のために強引な増税をしたため、王国内の都市や農民は疲弊して税収は頭打ちになった。ヴァルデマーはバルト海での征服戦争で財政収入を獲得しようと試みた。1361年、王はゴートランド島に遠征して富裕な積替え地ヴィスビーを襲撃し、巨額の財貨を軍税として巻き上げた。だが、ゴートランドとヴィスビーはスウェーデン王の領地で、ハンザ加盟都市だった。
デンマールク王ヴァルデマーはハンザの援助で王位に就いたにもかかわらず、ズント海峡の通航に課税したうえに、ヴィスビーまで攻略=収奪した。さらに漁場を守るためという理由で商船のズント海峡通航を妨害した。スウェーデン王はハンザに同盟を呼びかけた。リューベックを盟主とするハンザはデンマールク王に抗議書簡を送ったが、見向きもされなかったことから、ハンザ同盟はついにデンマールク王権と戦争に突入した。
ハンザはスウェーデン王、ノルウェイ王と同盟して、48隻の武装艦隊と8000人の武装兵を派遣した。だが、戦況は膠着したまま、ハンザ側不利の形勢のうちに戦争は終息した。敵対関係は持続する。
デンマールク王国は自ら商船隊を保有し、また主要な域内の通商路は陸上を通っていたこともあって、域内へのハンザの商業的支配の浸透をどうにか防ぐことができるほどには強力だった。だが、デンマールク王権はいまだ未熟な統治機構と貧弱な宮廷財政しか備えていなかった。ゆえに、機動的な艦隊や確固とした補給線を備えているハンザ同盟に対して、戦争が長引けば勝ち目はなかった。
そのうえ、バルト海や北ドイツにおけるデンマールク王権の勢力拡大をおそれるノルウェイ王権、スウェーデン王権、シュレスヴィヒ公、ホルシュタイン伯は、消極的にではあるがハンザに味方した。あるいはハンザによる貿易停止の威嚇に屈したのかもしれないが。
デンマールクとの直接的戦闘を担ったのは、地理的にデンマールクと隣接するヴェンデ地方の諸都市、とりわけリューベックだった。だが、1367年、ハンザはケルンでヴェンデ地方、リーフラント地方、プロイセン地方に加えてホラントならびにゼーラントの諸都市も参加する戦時同盟条約を成立させた。北海からバルト海にいたる地域の合計77都市がデンマールク王に敵対を宣言し、貿易封鎖をおこなった。
同盟諸都市から軍艦が派遣され艦隊が増強されるとともに、財源としての諸都市の戦時税がリューベックに集積され、その管理権限がリューベックに認められた〔cf. Rörig〕。これは臨時措置だったが、財政の集権化であり、ハンザの盟主としてのリューベックの地位は明白になった。
ハンザ側はコペンハーゲンや近隣の沿海部を占領し、スウェーデン側領主たちの反乱と提携して対岸のスコーネ地方をも征服し、ヘルシングボルィを攻略した。戦況の悪化のなかで、デンマールク王ヴァルデマルは講和を受け入れざるえをえなくなった。1370年5月24日のシュトラールズント講和条約は、バルト海域でのハンザ=リューベックの覇権を確定し、バルト海諸都市の最も危険な敵対者であったデンマールク王権は屈服した。
条約では、デンマールク領の海峡沿いの諸城はハンザの統制下に置かれることになった――実際にはハンザはデンマールクの総督に諸城の統制を委ねた。とはいえ、デンマールク王国評議会は、ハンザ諸都市の同意を得なければヴァルデマールの後継者(次王)を選出できないものとされた。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成