第2章 商業資本=都市の成長と支配秩序
第4節 バルト海貿易とハンザ都市同盟
この節の目次
東欧の諸都市の離脱や通商拠点の喪失
15世紀後半から、東欧の諸都市や貿易拠点は、周域一帯の政治的=軍事的環境の変動のなかで、リューベックなどのヴェンデ諸都市の統制からどんどん離脱していった。
1454年、プロイセン諸都市の連合がドイツ騎士団の所領支配に反乱を試み、ポーランド王カシミール4世に支援を求めた。戦乱が続いた。豊かな都市への支配権を欲するポーランド王国の貴族がこぞって王権に味方した。
1466年、ポーランド王権と貴族の同盟軍がドイツ騎士団を打ち破り、この年の第2次トールン講和協定によって、ダンツィヒ、トールン、エルビングは、ポーランド王国に臣従するプロイセン公国に編合されることになった。これによって騎士団はすっかり衰退して、事実上、ドイツ騎士団侯国は解体した。ヴェンデ地方諸都市と利害が対立していたプロイセンやポーランド諸都市をハンザ同盟につなぎとめていた政治的装置の1つが崩壊してしまったのだ。
そのうえ、1478年にはモスクヴァ大公国のイヴァン3世が商業都市ノヴゴロドの独立を奪い、ハンザの貿易拠点が失われてしまった。
ところで、プロイセンやポーランド、リトゥアニアの諸都市がリューベックを中心とするハンザ同盟から離脱したのち、自立化できたかというと、そうではなかった。この地域は、相変わらずヨーロッパ世界分業体系のなかで西欧への穀物=食糧や木材などの供給地として、従属的=周縁的な地位を押しつけられ続けた。
ヴェンデ地方諸都市が優越するハンザ同盟に代わって、今度はネーデルラント諸都市がプロイセンやポーランドの諸都市に覇権をふるうようになったのだった。
16世紀になると、通商での優位を失うとともに、ハンザ諸都市は従来の地位や市域内の秩序を守ろうとして、保守的、排他的になっていった。リューベックは外来者の商業活動のすべてに制約を課し、小規模の取引きは市内の小売商人の権利とした。外来商人には商品の公開展示を禁止し、輸入した商品を販売以外の方法で処分させた。在地商人の利害を優先して、域外商人の特権を切り崩そうとしたのだ。市域内の諸階級の政治的凝集を高めて秩序の安定を優先するためだった。
ところがこの時代まで、ハンザ諸都市の通商上の同盟や提携関係は、各都市がそれぞれ相互に外来商人の商業特権の行使を認め合うことによって成り立っていた。つまり、ハンザ諸都市での域外都市商人の商業上の特権を認めるのと引き換えに、相手都市でのハンザ商人の通商特権の排他的独占を認めさせるというものだった。だから、すでに優位を保持している都市の身勝手な内向きの政策は、経済的に上昇しつつある――それゆえ販売経路・機会を広げようとしている――都市には受け入れられない要求であった。
こうしてひとたび貿易上の特権を集団的に確保し合うという体制の一角にヒビが入れば、統一的な統治機構をもたない、地理的に離れ離れの同盟諸都市の結束が急速に解体していくのは、もはや押しとどめようがなかった。
1426年に宣戦布告されたデンマールクとの戦争では、プロイセンとリーフラントの諸都市は参加しなかった。1453年のブリュージュとの対立では、ケルン――以前からリューベックやヴェンデ諸都市とはそりが合わなかった――とドイツ騎士団がハンザのブルゴーニュ公とブリュージュへの譲歩を求め、ハンザとしての統一的政策がとれなかった。ハンブルクは古くからロンドンとの結びつきが強かったせいか、王権との結びつきを強めながら急速に成長してきたイングランド商業資本の影響力を受け入れるようになっていった。15世紀には、ノヴゴロド商館を管理していたリーフラント諸都市は、域内で独自に結束して西方との貿易で排他的な独占を打ち立て、リーフラント以外のハンザ諸都市の対ロシア貿易を封じこめてしまった。
ここにいたって、周囲の君侯による領域国家の形成を妨げ、統一的な領土と統治装置への吸収を拒んできたことが、ついに仇になった。ハンザは15~16世紀をつうじて衰退し続けた。レーリッヒはハンザの運命を厳し目に判断して、ハンザの権力構造は16世紀初頭には解体されてしまったと見ている〔cf. Rörig〕。16世紀前半にブリュージュおよびノヴゴロドの商館が消え去り、16世紀末には西ヨーロッパの拠点ロンドンのハンザ商館が閉鎖され、イングランド王権による通商特権を失った。17世紀の中頃までには、とうとう同盟は解体されてしまった。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成