第2章 商業資本=都市の成長と支配秩序
第4節 バルト海貿易とハンザ都市同盟
この節の目次
さて、有力君侯による領邦平和運動が進むと、各領邦内では、土地支配や裁判権・関税権などの諸権益をめぐる中下級領主たちのあいだの紛争を武力闘争によって解決することが禁圧され、彼らに上級権威としての領邦君侯 Landfürsten の裁判権への服従を受容させ、こうして訴訟と君侯の裁定による決着が強制されることになった。
さらにラント内部での統合が進むと、中下級領主層は都市代表と並んで領邦評議会 Landtag に参集し、地方領主としての特権を保持しながらラント統治をおこなう君侯権力の地方的エイジェントないし下級装置として位置づけられるようになっていった。弱小な都市もまた領邦君侯の行財政権力に取り込まれていった。このような文脈で、領邦秩序の形成は、一定の地理的範囲において都市の通商特権を含めた法的関係がしだいに相対的・制度的に固定化されていくことを意味した。
このような状況では、制度的に固定化・安定化しつつある法的空間のなかにたまさか入り込んできた個々の商人団体の権限を個別に特定するのは面倒になった。むしろ、個々の商人団体が帰属する上位の団体、つまり都市同盟とラントとの関係を固定化し、この関係を基礎にして、商人団体やその商業活動をめぐる法的関係を規制する仕組みが必要になった。遠距離貿易が恒常化すると、この貿易関係のなかに絡めとられた諸都市、諸地方の役割――つまりは社会的分業での地位――が固定化され、それらのあいだの取引きをめぐる法的関係も固定化されていくことになった。
従来の「商人ハンザ」の法制度・法慣習は、遍歴商業に対応していた。遍歴商人仲間の団体が結成され、冒険事業が企図されるごとに、法的関係がそのつど発生し、仲間団体の解散とともに消滅していた。ところが、遠距離貿易関係が恒常化するとともに規模が拡大し事業形態が多様化すると、通商事業の件数・規模が増大し形態が多様化し、このような仕組みで遠距離貿易をめぐる法的関係を管理するのは困難になった。そして、商人経営における意思決定の中心=帳場が特定の都市内に固定されるようになっていた。してみれば、遠距離商人の活動をめぐる法的関係の組み換えは、このような事情の変化に照応していたといえる。
しかし、法秩序の組み換えは、通商における諸都市のあいだの力関係の変化をともなっていた。すなわち、新しい秩序によって新たな優位を獲得しようとする勢力は、秩序の組み換えによって、古い秩序によって優位を維持確保していた勢力の追い落としをねらっていたのだ。ヴィスビーに対するリューベックの優越は、まさにこのような政治的=法的構造の変化にも対応するものだった。
ゲルマニアでは領邦の上位にローマ帝国という独特のレジーム=法観念が成立していた。そこでは、皇帝を選出できる権利を保有する聖俗の有力領邦君侯たちが選帝侯評議会に結集しながら皇帝の権力を牽制し、そのほかの領邦君侯たちは帝国評議会に参集しながら領邦内での権力を保持し、外部または上位の権力の介入を回避しながら領邦の自立化を達成しようとしていた。
皇帝自身も有力領邦君侯にほかならず、選帝諸侯のなかから選ばれたが、皇帝権力を手にすると、それを利用して自らの領邦版図や家政収入の拡大をめざした。皇帝の権力や帝国は多分に名目的なものでしかなかったが、際限のない武力紛争を避け「勢力平衡」を維持ようとする諸侯は、それなりに帝国制度を尊重し、相互に行動を制約し合っていた。
このように、皇帝や選帝侯、領邦君侯、中下級の地方領主などが折り重なり、縦にも横にも入り組んだ政治的・軍事的環境は、諸都市の存在を複合的に制約していた。強引に一般化すると、領邦君侯による介入・支配や重い税賦課から逃れて自立しようとする諸都市は、皇帝への直属または皇帝による庇護――なにがしかの税や賦課金の上納と引き換えに――を求める場合が多かった。
ところで、バルト海から北海に抜け出てネーデルラントにいたるいくつもの海峡航路は、好戦的なデンマールク王権が扼していた。比較的狭隘な海峡水路は、両岸を支配するデンマールク王権とその領主たちの介入を容易にしていた。彼らは水路の岸や船舶上から目を光らせて、通航税の徴収や掠奪の機会をうかがっていた。
当時の法観念からすれば、デンマールク王権の支配がおよぶ海域・水域で王の臣民としての貴族や船主たちが商船から通航税をむしり取ったり、私掠(海賊)行為をなすのは、ごくまっとうで正統な政治的・経済的活動だった。王権は通航税の徴収や掠奪を指導し、税収入や掠奪物資の分配に積極的にあずかっていた。
物騒なデンマールク海峡を避けるため、バルト海と北海との間を往来する貨物の大半はリューベックとハンブルクを結ぶ地峡運河=陸路ルートを利用した。フランデルンやイングランド方面、あるいはブレーメンから来た船舶はエルベ河を遡航してハンブルクに停泊し、商人と積荷は陸路またはリューネブルクからシュテクニッツ運河航路でリューベックまで到着した。リューベックからふたたび海上輸送に頼ることになった。
北に向かって大きく突き出したユートランド(ユーラン)半島と島嶼群を回り込む航海は、それなりに長い時日を要したので、運河と陸路による効率の悪い輸送でも、代替できないこともなかったというべきか。
やがて陸路や運河との連絡上、海運の管理上、また集積地=中継地点としての利便性からリューベックが貿易経路において優位に立つようになった。この都市には港湾施設、多数の倉庫が整備され、各地からの輸送路が集まり、取引きや決済業務が集中していった。多くの場合、遠距離貿易ネットワークの中心都市は、放射状に広がる陸海の交易路の結節点をなしていたが、それはリューベックにも当てはまる。⇒中世晩期のヨーロッパ交易路の絵図を見る
それにしても、北西ヨーロッパ=バルト海交易の自由と安全のためには、スカンディナヴィア半島とユートラント半島を回り込む海峡に圧力をおよぼそうとするデンマールク王権と貴族を封じ込めねばならなかった。何度もの海戦と陸戦をつうじて、リューベックはまずホルシュタインからのデンマールクの支配を駆逐したが、海峡をめぐる紛争は容易に決着しなかった。
ハンザの傲慢さに憤懣を募らせていたのは、デンマールク王権だけではなかった。ノルウェイ王権もことあるたびに抵抗を試みたが、そのたびに貿易封鎖の脅しや実行によって屈服させられていた。
13世紀中に目立つ紛争は1284年に起きた。この年、ノルウェイ王エーリクは――王国域内でのハンザの独占と優越が目に余ったせいか――、ハンザへ付与した通商特権の更新を拒否して剥奪した。これに対抗して、ハンザは海峡封鎖バルト海からノルウェイへの穀物――食糧に加えて麦芽とビールも――供給路を断ってしまった。兵糧を断たれた王権は矛を収めるしかなかった。エーリク王はハンザの特権をあらためて保証するしかなかった。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
◆全体目次 章と節◆
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成