補章―2 ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
この章の目次
当時の交通手段や輸送テクノロジーから見て、フランク王国では、宮廷から王国の全域に軍事的・政治的支配をおこなうことはできなかったのは明らかだ。そもそも地理的に固定した宮廷はなかった。
王は直属の宮廷家臣やら従者を引き連れて版図内の各地を巡行し、あるいは代官を派遣し、地方の有力者や身分代表を集めて裁判や評議会を開催して王権の権威を伝達――または授封関係の再確認を――するしかなかった。しかも、王は1領主として自らの直轄領の巡回をおこなって統治しなければならなかった。武装した家臣団や護衛兵団を引き連れた行軍=遠征であって、なまなかな費用では済まなかった。
王と地方領主との封建法的授封=臣従関係( Lehenswesen )は生身の人物どうしのパースナルなものだったから、どちらか一方の死去によって解消されるものだった。つまり、王または領主の一方の代が替われば、レーエンを結び直さなければならなかった。だが、武装能力をもつ軍事単位としての領主たちは所領や支配圏を世襲相続するようになると、王権による統制は長くても数代のちには必然的に有名無実化せざるをえない。
ゆえに、西フランク王国版図で後期カローリング王朝は「王国」の実効的な統治レジームを打ち立てることができなかった。
そのため、王の権力は伯――ゲルマン戦士団の最下級爵位――たちによって実際の権力が分割されていった。そして、耕地の開拓や村落の増加し農村経済の成長が進むと、伯の実質的軍事力を担っていた有力騎士たちは独立していった。彼らは世襲の独立した封土=所領に定住して、城砦を中核とした支配圏を形成し、彼らに強制をおよぼす能力のない王や公伯諸侯に対して負っている名目上の義務を無視するようになっていったのだ。
有力騎士は城砦領主身分を構成するようになった。
従来の伯が権力を実効的に保持できない場合、伯の権限は城砦領主たちによっていくつにも分有=分割されていった。そして、そのなかでも有力な領主が上位者として周囲の領主を臣従させながら、権力をふたたび統合し始めた。強力な軍事力をもつ新たな公伯(公爵、伯爵)が出現することになった。
だが、彼らもまた絶えず周囲や下位の領主たちに実効的な権威を誇示し続けなければ、権力の簒奪の憂き目に会うようになった。つまりは、下位や周囲の領主たちから独立した軍事力を保持しなければならなくなった。
だが、中下級領主の忠誠の向け先は状況しだいで変わったようだ。
そこで君侯たちは、支配圏域の防衛のために可能なときには――支払能力があるときには――いつでも直属の家臣・騎士に加えて有給の軍隊、すなわち傭兵に頼らなければならなかった。
傭兵とは、多くの場合、土地も定職もない騎士や歩兵たちであって、報酬と引き換えに契約によって一定期間、自らの武装と戦闘能力を売り渡す戦争請負人であった。
この階級は、ヨーロッパの人口が増大するにつれて増加した。君侯や領主に雇われる傭兵には、そのほか、軽装備の下級騎士、歩兵、イタリアかプロヴァンスから派遣される弩の専門家がいた。
12世紀からの貨幣経済の浸透とともに、貨幣経済に順応した貴族層は、王や君侯に差し出す「軍役免除税」と引き換えに軍務を免れるようになった。王侯たちは獲得した金を報酬にして、傭兵による軍隊を組織するようになった。傭兵組織は、一種の冒険的な企業経営だともいえる。
地中海沿岸地方では、貨幣経済がどこよりも早く復活成長したため、騎士はより独立的で、金銭的報酬を目当てに行動した。南フランスの騎士は傭兵を率いる場合、自分の安全や利益を最優先し、主君の権威を受け入れる慣習をもたなかったという。敵方の傭兵隊長と示し合わせて、形ばかりの戦闘を繰り返して報酬にありつく者たちもいたようだ。
ゆえに戦争での優劣は、最終的に、いかに長く戦役を持続できるかという能力、つまり経済的基盤に裏打ちされた財政能力によって決定された。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
◆全体目次 章と節◆
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成