補章―2 ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
       ――中世から近代

この章の目次

1 封建騎士と領主制支配

ⅰ フランク王国と騎士制度

ⅱ 領主制と封建法観念

ⅲ 西フランクの王権と軍制

2 イタリアの都市経済と傭兵

3 中欧・東欧の軍制と領主制

ⅰ 多数の領邦の分立

ⅱ 都市建設と東方植民

4 ノルマン征服王朝とイングランド

5 新たな軍事力と傭兵制

ⅰ 百年戦争と「封建騎士」の没落

ⅱ 王権と傭兵制

ⅲ スイス、オーストリアの傭兵

6 中世晩期から近世の軍備と財政

7 国家形成と軍事組織

ⅰ 断続する戦乱

ⅱ 近代国家制度への歩み

ⅲ 傭兵たちの戦争

8 ヨーロッパの軍事革命

ⅰ 歩兵組織と築城戦術

ⅱ 膨張する戦費・軍事費

9 艦隊と海洋権力

ⅰ 地中海

ⅱ 北西ヨーロッパ

ⅲ 新型艦隊と商業資本

10 軍事と経済との内的結合

3 中欧・東欧の軍制と領主制

  ライン地方では、古くからゲルマンの騎士制度――武装と戦士の能力が土地支配を根拠づけていた――が発達した。
  だが、それより東では、上級君侯が軍役奉仕と引き換えに武装騎士の土地保有の権力を認めるという制度の普及が遅れた。農地開拓と農村建設が遅れて始まったからだ。ザクセン、フランケン、シュヴァーベンのゲルマン諸部族では、斧と槍をもって徒歩で戦う自由保有農民が村落防衛の主体だった。
  原生林のなかに散在する開拓村落ができたばかりの頃には、賦課や貢納に回す剰余農産物は限られていて、専門の戦士階級が領主として農民と村落を支配する構造は成り立ちにくかったのだ。
  それは、9世紀末に弓で武装し乗馬したマジャール人諸部族の群がドイツ平原を襲うまで続いた。だが、マジャール人の脅威に対抗してゲルマン諸部族の居住農村を防衛するために、10世紀には、重装騎士とそれを支える社会的組織――つまり領主制――が確立した。
  中央ヨーロッパ・東フランク――テュートン諸族が居住する地方という意味でドイチュラント(以下ではドイツと呼ぶ)呼ばれるようになった――では、分立割拠する有力領主層のあいだでザクセン家を盟主とする平和同盟が成立し、10世紀中葉にマジャール人を制圧してオットーのザクセン王朝(のちの神聖ローマ帝国)が成立したことによって、騎士領主の土地支配が安定したレジームとなった。
  だが、それはマジャール人を駆逐したのではなく、未開拓の森林が広がる中央ヨーロッパでの棲み分けの仕組みが形成されていったということだ。

  ザクセン王朝時代のゲルマニアは法観念上「ドイツ王国 regnum Teutonicorm 」を構成したが、イタリア遠征を経て、ドイツ王が皇帝位を得たことから、シャルルマーニュ以来のフランク大王国=帝国の継承を任じて「ローマ帝国 Imperium Romanum 」とも自称した。神聖ローマ帝国 Imperium Romanum Sacrum 」となるのは15世紀末――1495年、ヴォルムス帝国評議会の帝国平和令による諸侯領主の同盟形成――になってからのことだ。
  だが、古代のローマ帝国との混同を避けるため、ここでは15世紀末よりも以前のゲルマニアの帝政レジームを「神聖ローマ帝国」と呼ぶことがある。

ⅰ 多数の領邦の分立

  さて、ドイツでも帝国や王国レジームは多分に観念的な制度で、実効的な軍事的・政治的支配は、分立的な地方領主が担っていた。そして地方部族ごとに有力者が小王国――領邦 Land と呼ばれた――の君主を任じて周囲の領主たちを束ねていた。
  ところが、初期領邦レジームが確立しないうちに十字軍運動が巻き起こり、地方領主層の勢力争いが繰り広げられた。そのため、地方領主層のなかでも、領邦君侯と彼らから知行地を授封されて遠征軍務についた中規模の貴族は、十字軍戦争などの戦乱で没落・滅亡してしまったようだ。
  こうして、13、14世紀以降は、中規模の領邦は解体してごく少数の大規模な領邦に統合されるか、または多数の弱小な領邦に分解して、ドイツの地方分立性が一層ひどくなっていった。
  前者の場合、有力君侯たちが下級領主層を臣従させ、あるいは直属家臣として服属させることによって集権化が進み、比較的に広大な支配圏=領邦レジームが出現した。他方多くの地方では、下級の小貴族たちが所領の強固な軍事的支配を基礎に自立していき、多数の弱小な領邦が分立割拠・対抗することになった〔cf. Hartung〕
  領主たちは、互いに移ろいやすい同盟を組んで現状の勢力平衡状態を維持しようとして、近隣の有力君侯による支配圏域の拡大や集権化に執拗に抵抗し続けた。
  15世紀末以降、ハプスブルク家による事実上の「皇帝位世襲」状態のなかで、ハプスブルク家門による集権化が進む。これに対して諸侯・領主は自らの政治的・軍事的自立性を維持するために積極的に帝国レジーム――帝国評議会 Reichstage や帝国最高法院 Reichskammergericht など――を利用しようとする。その意味では、帝国レジームは、平和令によって大きな戦乱を回避しながらゲルマニアの政治的・軍事的な分立割拠状態を維持――つまりは強大な王権の成立を阻止――するための仕組みとなったといいうべきだ〔cf. Wilson〕
  こうして、ドイツ王国=神聖ローマ帝国は、実質的に多数の自立的な領主権力の不安定な寄せ集めにすぎなかった。有力な王権による平和が築かれない状態に対応して、武装した農民団体が村落ごとにあるいは村落を超える連帯を組織して、農民と村落の権利を防衛するという伝統は、その後、16世紀の農民戦争終結まで続いた。

ⅱ 都市建設と東方植民

  ライン地方では、10世紀以降、所領での農業生産力の成長を基盤として、修道院や教会などの聖界領主が主導しながら宗教権力と布教活動の拠点として都市集落を建設していった。そこには、はじめは宗教関係者とその従者たる騎士、彼らの消費のために生活用品を製造する職人と家族が集住していた。
  たまに遍歴商人がやってきて、各地の特産物を販売した。やがて、商人たちは都市集落に定住するようになった。
  都市防衛のための軍事力ははじめのうち聖界領主(都市領主)の家臣としての騎士が担っていたが、特権を得た商人たちが都市行政のための団体を形成するようになると、都市団体が騎士や傭兵、あるいは市域内から徴募された民兵を組織して、防衛にあたらせるようになった。
  騎士は周囲の俗界領主の家産官僚・代官などになるか、あるいは都市行政での特権を利用して都市団体に勤務するようになった。
  やがて13世紀以降、商品交易路の展開を後追いするように、神聖ローマ皇帝の政策に沿って貴族や騎士のあるものはイタリアへの遠征に参加し、またあるものは東部――バルト海沿岸や東欧向け――植民にドイツ騎士団として参加した。
  植民活動に参加した騎士たちは修道会を結成し、植民地で物資の補給線をつくりだそうとする商人層と結びつきながら、クールラント、ポンメルン、エストニア、ポーランド、プロイセンの原野と森林における農地開拓と集落建設を指導・支援し、キリスト教の布教を擁護し、移住農民を保護したが、土着のスラブ諸部族をも支配するようになっていった。

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世界経済における資本と国家、そして都市

第1篇
 ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市

◆全体目次 章と節◆

序章
 世界経済のなかの資本と国家という視点

第1章
 ヨーロッパ世界経済と諸国家体系の出現

補章-1
 ヨーロッパの農村、都市と生態系
 ――中世中期から晩期

補章-2
 ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
 ――中世から近代

第2章
 商業資本=都市の成長と支配秩序

第1節
 地中海貿易圏でのヴェネツィアの興隆

第2節
 地中海世界貿易とイタリア都市国家群

第3節
 西ヨーロッパの都市形成と領主制

第4節
 バルト海貿易とハンザ都市同盟

第5節
 商業経営の洗練と商人の都市支配

第6節
 ドイツの政治的分裂と諸都市

第7節
 世界貿易、世界都市と政治秩序の変動

補章-3
 ヨーロッパの地政学的構造
 ――中世から近代初頭

補章-4
 ヨーロッパ諸国民国家の形成史への視座

第3章
 都市と国家のはざまで
 ――ネーデルラント諸都市と国家形成

第1節
 ブリュージュの勃興と戦乱

第2節
 アントウェルペンの繁栄と諸王権の対抗

第3節
 ネーデルラントの商業資本と国家
 ――経済的・政治的凝集とヘゲモニー

第4章
 イベリアの諸王朝と国家形成の挫折

第5章
 イングランド国民国家の形成

第6章
 フランスの王権と国家形成

第7章
 スウェーデンの奇妙な王権国家の形成

第8章
 中間総括と展望