補章―2 ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
この章の目次
14世紀からヨーロッパの軍事力の編成と内容は構造転換していく。兵器の運用は強度の高い弓の利用から始まって銃や大砲の利用にまでおよぶが、その結果は軍事力における歩兵の役割の増大と封建騎士の地位の決定的な没落だった。
イングランド王プランタジネット家は、12-14世紀に西フランクで並みいる君侯領主のなかでも最大の支配地――ノルマンディ公領やアンジュ―伯領、アキテーヌ公領などを保有したうえに、征服により領地を拡大した――を獲得した。おりしも1328年、フランス王カペー家が断絶したことから、ブランタジネット家はフランス王位を要求して大陸を転戦することになった。これが百年戦争と呼ばれるものだ。
フランス各地での諸侯家の嫡流が絶えるたびに、プランタジネット家とほかのフランスの有力諸侯とが相続争いを繰り返し、これと絡み合いながら、また王位継承をめぐってプランタジネット家とヴァロワ家のいずれを支援するかで諸侯領主のあいだで派閥争いが生じた。
さて、1346年クレシーの戦いでイングランド王軍は、騎士を下馬させて援護の長弓・弩の射手のあいだに配置した。敵の騎兵隊の第一撃を長弓歩兵隊の攪乱攻撃でしのいだあとに、騎士に乗馬させて突撃させ、敵軍を蹂躙壊滅させた。フランス王(ヴァロワ)派の軍はこの戦術によって潰滅的打撃を受けた。
歩兵の弓隊が「封建騎士」に与えた破壊力は、歩兵を活用する戦術の優位を示し、騎士=貴族の軍事的役割に痛烈な疑問を浴びせることになった。
フランス王軍の騎士は弓の威力に対応して、鎖かたびらを板金の鎧に替えて戦闘のために下馬したが、それは、視野を狭くし、動きの機動性を奪ってしまったという〔cf. Howard〕。
ゆえに騎士は、戦力としての自立性を失ってより大きな作戦単位のなかに統合され、全体の指揮に服してほかの兵種・機能単位と相互補完しなければ、戦力としての効果を得られなくなった。こうして、15世紀までには、重装騎士は戦場での実戦にあまり役立たず、その割に戦功に報いる領地や報償などの過大なコストがかかるという限界が明らかになった。
結局のところ、イングランド王軍をブリテン島に追い返したのは、フランス王側で新たに編成された火縄銃隊と砲兵隊であった。これは火器の発達の成果で、従来のカタパルトで焼夷弾を発射する方法から、試行錯誤をつうじて15世紀までに小銃と大砲が開発されていたのだ。もちろん銃の命中率はきわめて低かったが、一斉射撃で敵側の隊列を撹乱するための効果は大きかった。
15世紀のフランス王軍では、この軍事技術が導入され、いまや機動力の大きい軽武装騎士(軽騎兵)と砲兵が統合されていた。火砲の攻撃によって敵の弓隊の隊列を崩し、軽騎兵の突入・接近戦で支配地を確保した。さらにまた、フランス王軍は攻城砲兵隊を編成し、イングランド王の領地を守る城砦を破壊した。
こうして、大陸での軍事技術の水準から見て大いに遅れていたプランタジネット家の勢力は、大陸から駆逐されていった。
その結果、フランスでも歩兵隊の騎士に対する優位がはっきりした。軍の編成では、騎士隊の突撃を防ぐために長槍をもつ密集歩兵の隊列と砲兵隊との結合陣形が主力となった。密集歩兵の方陣の周囲や側面に銃砲隊を配置するための戦術が開発された。火砲の威力に対抗できるのは、やはり砲撃しかなかった。
フランスでの百年戦争はあちこちでの局地戦の集積にすぎなかったが、それにしても長期にわたりあちらこちらで断続する戦争状態をもたらした。それは、戦役に投入される傭兵の増大と集中、そして停戦後の拡散を生み出した。戦闘と殺戮、暴力行為に慣れ親しみ、武器を携行する多数の人間たちがフランス各地方を往来したのだ。
傭兵たちが戦闘行為のなかで強奪掠奪したものは、当然の報酬と考えられていた。戦域では、戦闘の合間に傭兵たちは稼ぎのために集落の略奪や破壊をはたらいた。それゆえ、彼らは「鎧を着た盗賊」とか「武装した物乞い」と呼ばれることもあった。
傭兵たちは、契約期間が終わると、すなわち、王権や君侯から規則的に俸給が支払われる軍務に召集される戦闘と戦闘のあいだには、あるいは戦利品が少なければ、生き残るために集団もしくは個人で都市や農村を襲い、略奪や破壊行為によって生活の糧を調達した。契約期間中に戦役に従事しているときでも、食糧や戦費が不足すれば都市や村落の略奪や威嚇によって調達した。
当時の生産力では、兵站・補給線を組織した戦争は想像すら不可能だった。このような状況では、王または有力君侯の正規軍による支配こそが平穏な生活や通常の通商、生産活動の必要条件であった。だが、封建騎士からなる旧式な正規軍による戦争は消え去ろうとしていた。
王や君侯たちは、新たな軍事的環境のもとで平和を構築する課題に迫られていた。
15世紀半ばから、フランス王シャルル7世は王令によって、各地に群がっていた主要な傭兵団を国王軍に編入して王が指定した特定の都市に駐屯させ、残りの傭兵団を強制的に解散させた。ところが軍隊には規則的な俸給の支払いが必要だった。王は、そのための費用をまかなうために課税に訴えた。
商人や都市は、こうした国王軍をまかなうために、戦費割当税 taille des gens de guerre の支払いを否応なく承諾した。横行する傭兵集団が都市になだれこむよりは、はるかにましだったからだ。各地の評議会はしぶしぶ戦費割当税を王の正当な課税権に属するものと認めた。
この税は15世紀末までに、身分制評議会の承認が要らない王の権利、恒久的な税となった。再建されたばかりの王権の支配圏域はまだ限られていたが、その軍隊は恒常的な財政的基盤の上に――ただし傭兵制度をつうじて――組織されるようになった。
王の直属軍が持続的に貨幣報酬で雇われるという事態は、ヨーロッパの軍事事情で画期的な事件だった。とはいえ、王の軍隊はフランス人だけでなく、ヨーロッパ各地から集められた部隊からなっていて、軍組織の統制や均質な訓練などをめぐっては多くの問題を抱えていた。
それにしても、王国全体でおよそ1500万の人口に対して、わずか1万2千の軍だったが、当時としては飛びぬけて大きな常設軍隊だった。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
◆全体目次 章と節◆
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成