補章―2 ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
この章の目次
14世紀前葉からスイスの山岳諸州はチューリッヒやベルンなどの都市を中核として結集し、近隣の有力君侯の支配に抵抗しながら統合を強めていった。15世紀半ばには、ヨーロッパで最有力の君侯、ブルゴーニュ公家に対して反乱を企て、独立を達成していった。
スイスの民兵隊は、1315年にモルガルテンの谷間で、1339年にローペンで、1386年にゼムパッハでハプスブルク家の騎士たちに奇襲をしかけて殲滅した。武器は長さ8フィートの矛槍で、騎士たちの鎧を貫き打ち割ったという。1476年にはムルテンで、1477年にはナンシーでブルゴーニュ公軍の騎兵を打ち破った。
戦法は、密集した歩兵の隊列が槍をハリネズミのように突きたて、機動的な攻撃と防御をおこなうというものだった。
スイスの総兵隊の戦闘(16世紀の銅版画)
山岳諸州の連合が独立を達成すると、その軍隊を報酬と引き換えにヨーロッパの諸侯に傭兵隊として派遣し、その戦闘能力と戦闘技術を提供した〔cf. Howard〕。防御能力にすぐれた槍部隊を銃砲隊と結合すれば、無敵に近い軍を組織できたからだ。
各地の都市や君侯たちはスイス人の傭兵隊を厚遇したという。それは、当然のことながら、雇う側の宮廷財政収入の増大を条件とした。
15世紀には、隣のオーストリアと南ドイツで傭兵隊が形成されていった。職と収入にあぶれた貴族の子弟が、生き残りのために選択した仕事だったようだ。
神聖ローマ帝国の貴族層の家系では均分相続制によって、代替わりのたびに所領などの財産が限りなく細分化されていったため、代を経るにつれて多くの貴族たちが生存のための経済的基盤を失っていった。土地からの収入以外の所得が必要になった。しかも、南西ドイツの領邦君侯はおしなべて弱小で、彼らを宮廷官僚や軍官としてとして召抱えることができなかった。
長子相続制度が慣習法になっている地域の貴族の次男、三男たちにも同じことが当てはまる。彼らが入り込める聖職者や宮廷官僚の定数にも限界があった。
彼らを吸収したのは、傭兵事業だった。貨幣報酬で雇われる職業的軍人として生き残りをはかるのは、自然な結果だった。ゆえに貴族は、傭兵を統率する指揮官としてだけでなく、隊伍に歩兵として勤務することもためらわなかった。ここでも、主要な武器は槍だった。
このようにして15世紀末までに、有効な軍隊には、槍兵、つまり槍で武装した歩兵が不可欠な構成要素になった。しかも、やがて火縄銃の開発とともに、火縄銃で武装した歩兵隊が付け加えられた。
このようにまったく新しい攻撃および防御手段を備えた軍隊のなかでは、もはや騎士はパーソナルな名誉のために自立的に戦うのではなく、機動性と突進力という限定されたその攻撃力が全体作戦に織りこまれることで、はじめて戦力になりえた。こうして、指揮官の命令にしたがって他の兵員と連携して動く1兵種となった。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
◆全体目次 章と節◆
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成