補章―2 ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
この章の目次
軍事革命は船舶と海洋にもおよんだ。
ユーラシア大陸の北西端にあるヨーロッパは、北・西・南の三方を海洋で囲まれ、内陸平原を水量の豊富な河川がゆるやかに流れている。そのため通商の発達は船舶輸送の成長と結びついていた。船舶は陸上交通に比べてはるかに大量のかさばる荷物を速く輸送することができたのだ。
だが、中世のヨーロッパではいたるところに君侯・領主や都市などの独立した軍事単位がひしめいていたから、船舶は船荷財貨の輸送の安全をはかるために多かれ少なかれ武装していた。
そもそも掠奪や海賊行為で財貨を取得する活動は、船舶通航で交易する商人にとってはノーマルな商行為の一部だったのだ。私掠船は商人の1形態であって、彼らは君侯や都市に税=賦課金を支払って私掠行為の特権(特許状)を獲得した。そして、私掠活動による収益の分配には君侯や都市団体も参加していた。
海洋の沿岸とか河川流域の領主や都市、住民団体は、十分な武装能力を保有している場合には、航行する船舶に通行税を支払わせ、拒否したときには積荷の財貨を奪いとることも多かった。
一方、私掠船の海賊・掠奪行為は、正規の艦隊の行動とされていた。というよりも、船舶による軍事活動では、航路での交易や掠奪によって戦費のほとんどを自前で調達していたのだ。私掠は莫大な収入を見込める有望・有益な商業活動の1分野だった。
ゆえに、交易活動の安全を期すため通商用船舶の武装はしごく当たり前のことだった。乗組員は商人であるとともに訓練された戦闘要員でもあった。
12~14世紀に地中海貿易圏が形成されると、北イタリア諸都市の武装ガレー船が活躍した。オールで漕ぐガレー船は風や潮流に頼らずに移動できたから、大きな船倉をもつ鈍重な帆船を急襲することができた。
13世紀になるとヴェネツィアではより大型で甲板に帆を設置して帆走できる新型ガレー船が開発建造された。船倉が広く速力も大きく、沖合でも航行できるので、輸送能力を格段に高めた。
はじめのうちは、ガレー船の攻撃兵器は弩だった。やがて小型カタパルトで火薬や灯油を染み込ませた焼夷弾を飛ばすこともあった。やがて銃砲が発明されるとが火砲が装備されるようになった。
13~14世紀地中海のガレー船:Wikipedia「ガレー船」
エスパーニャ王国地中海艦隊のガレアス軍艦:Wkipedia「ガレアス船」
ところがガレー船は、オールと漕ぎ手を配置した側面が衝撃に弱く、また火砲の舷側への配備もできなかった。そこで、襲撃にさいして舷側接近はできないから船首からの正面攻撃を仕掛けるしかなく、また火砲を搭載する場合にも船首か船尾に配置することになった。
ヴェネツィアでは16世紀に帆柱を備えて側面にはオールを配置した武装船舶、ガレアス船を開発・建造した。ガレアス船は、船首楼と船尾楼に大砲を取り付けられているだけでなく、高い船体構造の側面がロール漕ぎを配置する層と火砲を配列する層の2段になっていて、前後左右全方位への砲撃が可能だった〔cf. Parker〕。
この武装艦船によって、ヴェネツィアを中心とするイタリア諸都市はイスラム勢力を地中海の片隅に追いやり、地中海からネーデルラントにいたる航路と海域で優位を獲得した。
だが、武装ガレー船やガレアス船は主要な動力を人力に頼っていて、何百人もの乗員が必要だったため、食糧・飲料の短時日での補給が必要だった。船倉も大量の食糧・飲料でかなりの空間をとられたから、商用貨物の積載量も限られていた。
頻繁な補給のために沿岸航路をたどって頻繁に寄航するか、短い航路での活動しかできなかったので、航続距離の長い遠距離貿易での運搬や戦役には向かなかった。行動には大きな限界があった。
ところが、北の海では造船技術と結びついて軍事技術の革新が起きていた。
15世紀後半から、ハンザやポルトガル、イングランド、ネーデルラント、フランスではカラヴェル型商船が著しく大型化し、新型の帆を装備して高速化していた。小火器の搭載も始まっていた。やがて大型商船に重砲が配備されるようになった。
カラヴェル船:フランス、パリ海事博物館所蔵模型
はじめは船首または船尾楼か甲板に複数の鋳鉄製の後装砲を据えつけたが、重心が高くなったばかりか、弾薬の装填事故で船内での暴発災害が絶えなかった。その後、より重い青銅製の前装砲を舷側に取り付けるようになって、砲搭載にともなう重心を下げ、暴発事故を防ぎながら破壊力の大きな重火器を使用することができるようになった。
やがて舷側の砲門は開閉扉式になり、しかも舷側だけでなく船首と船尾の船腹に砲列を数段重ねて設置するようになった〔cf. Parker〕。
だが、火砲が重装備になるにつれて艦船は重厚、鈍重になった。近海での戦闘には向いているが、遠洋航海には向かなかった。
次の技術革新はイベリア半島で起きた。
ポルトゥガルとエスパーニャの艦船は、イベリアの地理的環境に合わせて水深の浅い港湾またはセビーリャのような内陸の河川港から出航して、航続距離の長い新大陸・大西洋貿易やアジア貿易に就航していた。そのため、船首が鋭い形状でカラベル船よりも喫水線が浅く、しかも甲板が低く、速力が大きくて航続距離が長い艦船の設計が求められた。
17世紀エスパーニャのガレオン船:
合衆国ワシントンD.C. 国立美術館所蔵絵画の一部分
このニーズに応じたのが、1520年代以降に登場した外洋航海向けの軍艦、ガレオン船だった。だが、搭載されていた大砲は遠距離砲撃専門の大型で、旋回操作しにくい二輪砲架式であったため、至近距離での連続砲撃ができなかった。ゆえに、当面はヨーロッパ近海ないし沿岸部での実戦では役に立たなかった。
ところが外洋では、エスパーニャのアルマーダ艦隊 Grande y Felicísima Armada は、縦一列の隊形を組んで舷側側に砲列を向けて砲撃することで大きな破壊力を誇示した。その経験からやがて「戦列艦
ships in a battle line 」構想が編み出されていくことになった。
それに対して、イングランドの大砲は小型で旋回操作のしやすい四輪砲架式で、射程では劣るものの近距離の乱戦では有効だった。〔cf. Parker〕。ゆえに1588年のロンドン攻防をめぐる近海戦およびテムズ川の戦闘で、「無敵のアルマーダ艦隊」はイングランド艦隊によって壊滅的打撃を受けてしまった。
近海での敵味方入り乱れた接近戦では、外洋における縦列隊形での遠距離砲撃の戦術に適合する戦艦は役に立たなかったのだ。最先端の軍事テクノロジーを旧来どおりの戦争環境で用いても効果はなかったわけだ。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
◆全体目次 章と節◆
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成