補章―2 ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
この章の目次
すでに見たように、14世紀以降、ヨーロッパでは世界貿易システムが姿を現すとともに、多数の自立的な軍事的・政治的単位が互いに依存しながら競争・闘争し合うシステムとしての諸国家体系 Staatensystem が形成されていった。
多数の王権や都市団体は自立的な政治体として、互いに競争相手に優越する軍備を求め、戦争での勝利をめざした。それらが調達する兵器は付加価値の高い商品となった。
そして、兵器の生産や技術開発、すぐれた戦略や戦術の考案と実践、国内外からの財政資金の調達手法の発達などが、相互に結びつきながら急速に発達した。
こうして、15世紀から17世紀にかけてヨーロッパでは、 ジェフリー・パーカー のいう《軍事革命》が起き、その結果、獲得した軍事的力量の優位を手段として、ヨーロッパ諸国家はヨーロッパでの戦争の強度を著しく高める一方で、地球のほかの地域に侵略・進出して力づくで世界経済に統合していくことになった。
この軍事革命のあらましを見ておこう。
当時、ヨーロッパ諸国家の軍隊は、騎兵、槍や銃で武装した歩兵、砲兵などの兵種から組織されていた。兵器の基本的技術は、19世紀の産業技術の構造変化がやってくるまでは、進歩の乏しい固定的な技術的枠組みなかにとらわれていて、その精度や性能は兵器製作職人の試行錯誤と熟練による調整に依存していた。
大砲 cannon gun : from Howard, op.cit.
ことに大砲は機動性と精度に大きな困難を抱えていた。16世紀末までは、大砲1門を曳くのに20~30頭の馬が必要で、弾薬車の移動にはさらに40頭が必要とされたという。しかもヨーロッパの狭隘未舗装の道路状態は、この鈍重な部隊の移動を著しく制限し、費用のかかる手段にした。命中精度もきわめて低く、発射から発射までに何時間もかかった。
大砲は主として攻城戦のための兵器で、そのほかはむしろ威嚇効果を期待して使われた。
一方、小火器である銃の改良は進んで、火縄銃はマスケット銃に道を譲った。長くて重いマスケット銃は、装填と発射に面倒な手順と時間が必要だったが、300ヤードの距離で騎兵の重装甲を貫通することができたので、騎兵の襲撃への反攻で大きな効力をもった。
だが15世紀には、銃撃は、騎兵に対する防御が本来の目的ではなく、本格的な衝突の前に敵軍の列を威嚇・攪乱するという補助的・限定的目的のために使用された。攻撃の主力は槍部隊であって、槍兵集団が多数の槍を振り立てて騎兵の襲撃を受け止め、反撃前進して攻撃進路を切り開いた。
しかし16世紀はじめには、銃は攻撃における補助的兵器から、攻撃と防御における決定的兵器としての役割を獲得した。そうなると、敵の銃撃をいかに防ぎ、また敵に対する銃撃の破壊力をいかに高めるかが課題となった。
かくして火器の発達は、歩兵隊の編成形態を組み換え、戦場での防御と攻撃の拠点として濠や障害物を周囲に配した築城と城郭陣地の戦術をもたらした〔cf. Parker〕。
あらたな歩兵組織と戦術は、はじめにイタリアやエスパーニャの城壁・城塞で防護された都市のあいだの戦争で開発・適用された。その頃、都市は市壁の外側の土地をできるだけ広く取り、その周囲に濠や土塁掩堤を築き、さらに食糧供給地としての周辺農村を軍事的・政治的に囲い込んで、市街からできるだけ遠いところに防御戦線を設定するようにしていた。
16世紀のヨーロッパでは、エスパーニャ王国ハプスブルク王朝の軍隊がヨーロッパのあらゆる戦線で戦っていた。その歩兵部隊はすぐれた戦闘能力を示した。
歩兵たちは、カスティーリャ王令による徴兵義務を課されて徴募され、専門的な軍事訓練を受け熟練した兵士たちで、その隊列には軽騎兵たちが混じっていた。
エスパーニャではレコンキスタの経験から、騎士たちは軽騎兵として歩兵集団の隊列のなかに配置されるのは通常の戦術だったのだ。
エスパーニャの歩兵部隊は15世紀はじめに、実戦の経験にもとづき、いち早く火縄銃と槍方陣とを組み合わせながら戦場で築城陣地を構築する戦法を採用した。そして、歩兵隊の編成を3000人(250人の中隊×12個)からなるテルシオ連隊
tercio に改編した。陣形としては、槍兵隊の方陣の周囲や側面を銃砲隊が取り囲んで兵団を編成し、それらのあいだに騎兵隊を配列した。それまで刀剣による突進急襲の手段であった騎兵は、いまや歩兵部隊のなかで高い機動性を備えた銃火器の担い手とされた。
彼らは、フランス王軍の騎兵と槍兵の攻撃を城郭に引きつけ、城郭から火縄銃で狙撃して敵戦力を弱体化させてから一斉攻撃を仕掛けて殲滅した。
日本の稜堡式城郭、函館五稜郭
出典:ウェブサイト『五稜郭の歴史』
函館五稜郭の最終設計図面
城塞の形状としては、稜堡 bastion という星型の突出城壁が構築され、それを囲む濠の外側に斜堤を築くというものになった。この濠に沿って火砲の列が配置され、稜堡には銃と大砲のための銃眼・台座が設えられ、その内側は土塁で補強されていた。この陣地に迫って攻撃を仕掛ける敵は、城に接近するまでに何重もの集中砲火を浴びることになった〔cf. Parker〕。これがすなわち星形稜堡式城郭 star fortress, Sternenfestung である。
函館五稜郭 出典:ウェブサイト『Good Day北海道』
小集落を囲繞する稜堡式築城(ネーデルラント王国フローニンゲン州) 出典:Bastion fort, Wikipwdia
都市集落を囲繞する稜堡式築城(フランス共和国ヌーブリサク) 出典:Neuf-Brisach, Wikipwdia
都市の稜堡式防御(スイス連邦ジュネーヴの古地図 1841年) 出典:Bastion fort, Wikipwdia
稜堡式築城と都市構造
銃砲(とりわけ攻城砲)に対抗しうる城郭としての稜堡式築城は、きわめて金のかかる工法だった。現在、ヨーロッパに残されている遺構の数や状態から見て、このような築城工法を本格的に取り入れることができたのは、16世紀から18世紀、イタリアやネーデルラントの富裕な諸都市――都市国家とよべるほどに政治的・軍事的自立性を備えた都市――だけだった。
この城砦工法は、はじめのうち城郭要塞それ自体の防御力を飛躍的に高めるために採用されたが、やがて、城砦とそれを取り巻く都市集落(城下街の主要部分)全体を防護する――いわば惣構えの――築城工法となった。そして、都市の構造・景観をそっくり組み換えることになった。
中世の有力諸都市は、その周囲を城壁(場合によっては幾重にもめぐらされた市壁)によって防御されていたが、近代初期には有力諸都市は火砲の攻撃に備えて稜堡によって防御されるようになったのだ。
火砲の発達と築城技術は戦争の形態を変えたが、それは国家組織のありようにも大きなインパクトを与えた。戦役はとてつもなく金のかかるものになり、莫大な財政収入(課税と借款)を得るための統治装置を必要とするようになった。
新たな城郭形態は、はじめは都市どうしのあいだの局地的な防衛戦に応用されたが、17世紀には、連続する国境線の防御体系(要衝の防衛設備)に組み込まれていった。そして、これまでは自然要害を除いてあいまいだった国家の境界線を、強固な城塞とそれを結ぶ防衛線や緩衝地帯で取り囲むようになった。
また、戦争の形態が転換するとともに、軍組織のなかでは直接的戦闘要員のほかにその何倍もの兵站管理と補給・運搬体系の運営要員が必要になった。最低限の衣食住は戦地・戦域での徴発や掠奪でまかなえたが、兵器は専門化し、銃砲や弾薬、築城材料などの補給や兵站管理、防衛築城は、交通輸送手段の整備のために土木建築工事が必要になった。
だから、この時代から、兵員数だけで単純に戦争の規模や強度、所要財政などは把握できなくなことに注意しなければならない。だが、戦費がけた違いに増大したことは確かだ。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
◆全体目次 章と節◆
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成