第1章 ヨーロッパ世界経済と諸国家体系の出現
この章の目次
この時期にイングランドとフランスの両王朝が領地をめぐって長期にわたる局地的戦争――「百年戦争」――を続けるのは、偶然ではない。
両王権は、それぞれ都市商業資本との結びつきを強めながら、羊毛繊維工業と交易、金融の中心地フランデルンを自らの支配圏に組み入れようとする意図をもっていた。
それゆえ、この百年戦争は、王位と領地の相続権をめぐる君侯(貴族同盟)どうしの紛争という封建法的性格を帯びていたとはいえ、形成されつつある大規模な貿易圏のなかでの優位をめぐる戦争、つまり貿易戦争であり、そして形成され始めた領域国家の領地確定をめぐる戦争――諸国家体系の形成への動き――という本質をもっていた〔cf. Morton〕。
この勢力争いはまた、ヨーロッパ世界貿易という新たな文脈に対応して政治秩序・統治構造を組み換えるそれぞれの地域内部での変革・闘争にもつながっていた。この変動・紛争は、つまるところ絶対王政という形態での国家形成へと向かう動きである。
それは島嶼イングランドでは加速するが、広大なフランス地方では遅滞する。イベリア半島では、レコンキスタによってイスラム勢力を駆逐しながらキリスト教的諸王権の建設が進められた。やがてエスパーニャ王国の版図が名目上イベリア全域をカヴァーした。だがそれは、アラゴン、カタルーニャ、バレンシア、ポルトガルという諸王国がカスティーリャ王権とそれぞれ別個に臣従契約を結んで形成された、いわば分立する政治体の集合でしかなかった。中部ヨーロッパでは、神聖ローマ帝国という法観念を残しながら、多数の領邦国家が形成されていった。
こうして、それぞれの地域内での支配秩序は決定的に転換していく。いずれにしても、統治の地理的範囲が拡大して、数えようによっては数百にもおよぶ微小な政治体(伯領や公領など)に分断されていたヨーロッパは、ずっと少数のより強力で大型の政治体の集合になっていく。
そしてこれこそ、それ以後4世紀間にわたってヨーロッパで展開される諸国家体系と国民国家の形成への歴史的過程の開始の明白な兆候だった。生産と流通とがヨーロッパ規模で単一の体系(ヨーロッパ世界経済)に融合し始めればこそ、この体系の内部に配置された諸地域や諸政治体が生き残りを賭けて勢力圏の拡大をめざして相争うことになったのである。
その結果、支配層にとっては秩序維持(自分の勢力圏の確保)のためのリスクとコストが飛躍的に上昇する。リスクは、統治機構や軍事力の拡充によって押さえ込まねばならない。こうしたリスク対策のためのコストをまかなうために、統治者の側は財政的基盤の拡充を迫られた。
この2方向の要請は互いに手を携えて進む。つまり、君侯領主たちには一方では支配圏域の地理的拡大、他方では支配圏域内部での資金調達能力の強化が求められるようになっていく。
資金調達能力の強化は、実際のところ、支配領域内の商工業活動への行政的介入の拡大や系統化によって、そしてそれにもとづく君侯の信用能力によって達成される。それは、王権が通商や製造の担い手たちに特権を付与し保護育成するのと引き換えに、彼らに賦課金や税金を課すということであり(租税制度の形成)、あるいは、統治者としての権力を担保に大商人から借金をする(公債制度の始まり)ということだ。君侯の金庫に絶えず資金を集め蓄えるという思想「王室財政主義 Kammeralismus 」が幅を効かせてくる。
王室財務官 Kammeralisten たちは、短期的視野で王室の金庫にとにかくいちはやく貴金属を蓄えようとした。域内の商工業を抑圧するかもしれない域外の商人であろうと、王室への財政的貢献が大きければさまざまな商業特権を売り渡した。
王権としては地方領主層の権力を切り崩して集権化を進めるために、一方では都市と富裕商人層の、他方では農民層の支持を得ようとした。王の直轄地では農民の負荷は軽減されるようになる。
14世紀以降、戦乱と飢饉や疫病が頻発したため各地で人口が減少したことで、農民の地位は相対的に向上し、地代は実質的に低下していく。農民の領主に対する交渉力は高まっていった。そして、とりわけヨーロッパに流通する貴金属・貨幣の量は13、14世紀から飛躍的に膨張したため、地代や貢納の金納化が進んだ地域では農民の負担は軽減することになった。
それは領主財政の逼迫を意味したので、農民への圧迫、ことに農民既得権の剥奪にはしる領主もなかにはいた。だが、王国内の平和を望み地方領主の権力の弱体化をねらう王権は、領主の農民への攻撃を押さえ込もうとした。こうして地方領主の力を削ぐことで農民の支持を受けることで、王権の支配力と正当性は高まっていった。
領主層は、支配圏域の拡大に成功するか、他者の軍門に下ってその家臣になるか、あるいは破滅するか、運命が分かれることになった。いずれにしてもその結果は、政治単位の地理的拡張、それゆえまた、諸地方の統合と権力の集中である。こうして、領域国家 Territorialstaaten の形成への動きが始まる。これが、14~15世紀の歴史的趨勢である。この領域主義 Territorialismus は、「国境」という新たな観念と制度を生み出した。
それまでの政治体には国境線はなく、「辺境」が君侯の影響力の縁辺をなしていた。新たに制度化された国境線はヨーロッパの陸地と海洋の上で何度も塗り替えられていく。はじめは国家形成を担う王権や君侯のあいだの戦争の結果によって、ついで成立した諸国家のあいだでの相次ぐ戦争の勝敗によって国境線が引かれては引きなおされていった。
他方、領主層のなかでの権力闘争と並んで、通商ネットワークが拡大するのにともなって、やはり遠距離貿易商人にとっても、チャンスの拡大とともに活動のリスクとコストは上昇した。より広大な流通圏域を組織し、その影響力がおよぶ範囲を拡大しようとすれば、こうした商人たちも結束して自ら一定の集合的権力を形成したり、有力な王権に保護を求めたりする必要に迫られた。
商人の集合体である都市の選択肢は、その内部の凝集力を高めて、対外的に自立し――近隣の君侯と結託するにしても、交渉力を強化しなければならないから――、都市自身が独立の政治的・軍事的単位になるか、それとも、その権益の保証を約束してくれる近隣の君侯権力に服属するか、ということになった。
だが、歴史は皮肉なもので、この時期にはあまり力が強くなかった商人や都市は近隣の王権に服属し、その国家形成に協力せざるをえなかったがゆえに、いち早く政治的なブロックを形成することができ、後に世界市場競争を戦い抜くうえで不可欠の仕組みをつくりあげることになった。その結果として得た利益ははかりしれない。
ところが、この時期にすでに十分な力を蓄えていたため、既得権益の喪失をおそれたハンザ同盟諸都市は、中世的な都市特権の維持を求めて近隣の君侯たちへの服属を拒み、彼らの国家形成を妨げた。同盟諸都市は相互に地理的に遠く離れ分散していたので、それらが一続きの領土に集まって国家(つまり共通の財政・通貨組織・軍事力・行政権)をつくるわけにはいかなかった。その結果、国家による強力なバックアップが世界市場競争で生き残るために不可欠となった15、16世紀以降のヨーロッパでは、脱落の憂き目をみることになった。同盟諸都市はやがて、それぞれ別個の領邦国家の領土に吸収されていった。
都市国家にまで成長した北イタリアの諸都市は、19世紀末近くまで国民国家の枠組みに吸収されることはなかった。その代わり、ヨーロッパ列強諸国家の勢力争いの虜となり、駆け引きの材料となっていった。多数の領邦国家に分断されたドイツの諸都市も似たような状況にあった。
主権をもつ領域国家の形成過程は、端的に言えば、政治権力の中世的な分立性を克服してより大規模な政治的単位をつくり出す過程であった。多くの場合それは、領地相続の資格をめぐる貴族諸侯のあいだの私的闘争 Fehde という法的形態をまとって始まった。その結果は、多数の領主の没落や弱体化とごく少数の有力な君侯への権力の集中、さらには絶対王政の確立だった。
下級領主や弱体化した領主層は地主化し、多くの場合、王権の統治機構の地方的エイジェントになっていった。そしてうまくいけば、王権の中央政府つまり宮廷で権勢を争うことができただろう。こうして、地方領主層は政治的・軍事的単位としての独立性を失うとともに、経済的には地主的経営の担い手となっていった。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成
第3節
ネーデルラントの商業資本と国家
――経済的・政治的凝集とヘゲモニー