第5章 イングランド国民国家の形成
この章の目次
イングランド王エドゥアール3世は、フランス王フィリプ4世(カペー家)の王女イザベラとイングランド王エドゥアール2世の嫡子だった。エドゥアール3世が王位に就いたのち、1328年にフランス王シャルル4世――イザベラの兄――が死去し、男系嫡流がおらずカペー家は断絶した。フランス王位は、先王の従弟でヴァロワ伯家のシャルルに継承された。ところが、アンジュ―伯領を失い辺境イングランドの王となったとはいえ、プランタジュネ家はアキテーヌ公領を中心とする南西部に勢力を誇るフランス王国の名門だという意識もあって、しかも自らの妃が先王の妹だという理由で、エドゥアールはフランス王位を要求した。かくして、フランスの王位と勢力圏をめぐる長い戦争状態が始まることになった。
だが、これはフランスにおける有力君侯のあいだの家門政策的な勢力争いという文脈で見た場合の百年戦争の姿でしかないのであって、この文脈では、勢力争いは12世紀からこのかた断続的に繰り返されている過程なのだ。
ところが、14世紀半ばから15世紀半ばというタイムスパンで眺めると、ヨーロッパ史の構造転換をもたらした、さらにいくつもの文脈が背景で結びついていることが見えてくる。
そのひとつ目は、ヨーロッパの気温低下をもたらした気候の大変動――14世紀から19世紀まで続く――と生態系の変動、そしてこれらの結果としての――二つ目の文脈となる――深刻な農業危機と食糧危機、さらに疫病の周期的猖獗と人口激減=人口危機である。
都市の農村の人口が激減した結果、人類の経済的再生産体系は大きな構造転換を迫られた。その結果が、三つ目の文脈となるのだが、ヨーロッパ的規模での遠距離貿易体系つまりヨーロッパ世界市場の形成である。その結果、商品貨幣経済に結びつけられた諸都市ならびに領主諸侯のあいだで熾烈な支配圏域の拡大闘争が繰り広げられ、つまりは領域国家の形成競争がもたらされる。これが四つ目の文脈である。
その結果、諸都市や君侯領主のあいだの武力闘争が頻発し、戦争や軍事拡張競争と経済的再生産がさらに内的に緊密に結合されることになり、ヨーロッパの軍事革命が生じた。これが五つ目の文脈である。
結局のところ、百年戦争の結果、イングランド王権は大陸領地をすっかり失ってしまった。それは、王室と有力貴族層の経済的利害の構造や発想スタイルならびに行動スタイルの転換を余儀なくした。そのため、イングランド内部で王権の統治機構――とりわけ財政構造――の再編成が避けられなくなった。だが、レジームの再編は、ヨーロッパ世界市場における諸都市や商業資本のあいだの競争という文脈において、有力諸都市と富裕商人階級を宮廷と王室財政に緊密に結びつける方向で展開されることになった。
私たちは、このあとの考察を以上の複合的な大文脈に位置づけながらおこなうことにする。⇒フランス側から見た百年戦争
モートンによれば、イングランド側から見た百年戦争の帰趨は、次のように2つの局面に分けて総括している〔cf. Morton〕。
①北西ヨーロッパの貿易拠点の支配をめぐるイングランド王権とフランス王ヴァロワ家との紛争が、フランデルン、ノルマンディ、ブルターニュ、ガスコーニュにおよぶ諸地方にわたって繰り広げられる局面。この局面では、王権はとりわけ議会をつうじて、ロンドンをはじめとする有力諸都市や商人団体の支持と財政的支援が期待できた。
②フランスにおいてプランタジュネ家による時代錯誤の家門政策的な――フランス王位の獲得をめざす――侵略戦争となった局面。この局面では、もはやイングランド諸都市と商業資本の支持を失い、それゆえ貿易利害に配慮する余裕を失ったため、イングランド王と貴族たちは、戦費を得るためにもっぱらフランスで征服・拡大した所領の農民からの搾取・収奪による収入の確保をめざしてフランスを転戦したが、農民民衆を敵に回し彼らの執拗な抵抗――局地的ゲリラ戦の頻発――に出会い、戦況が悪化したという。
この状況認識については、ここで私は論証する余裕がない。だが、仮説として受け入れることにする。
ただし、フランスにおける有力君侯の王位継承をめぐる勢力争いという側面で見ると次のように概括できるだろう。
当時の王室財政の能力からして戦場や戦線はきわめて限られた範囲にとどまっていた。ゆえに、この戦争は大陸各地での小規模な局地戦の断続的集積であったということ。疫病の周期的蔓延による人口減少と所領経営の危機のなかで、フランス各地で有力諸侯の家門の相続者が絶え、あるいは所領経営の破綻で、領地や爵位の継承紛争が頻発したであろうこと。したがって、百年戦争は封建法的な家門思想に染まっている君侯領主たちによって担われる戦いだったがゆえに、プランタジュネ家派とヴァロワ家派はそれぞれにフランス各地での領地と爵位の継承紛争に加担して、自派の貴族同盟の勢力拡大をねらったであろうこと。
そして、このことは局地的な紛争があちこちで続発した理由を説明するだろう。
このような文脈で瞥見するならば、イングランドとフランスという2つの国民のあいだの戦争ではまったくありえなかったことは明白となるだろう。フランスでの民衆の抵抗は自分たちの集落や農村を防衛しようという地方的・局地文脈で生じたもので、フランスという国民を意識したものではなかった――
戦争の最終的勝敗を決定したのは、いずれの側がより近代的な兵器と戦法を投入できたかどうか、言い換えれば、そのための財政的基盤を確保できた否かという要因だった。財政収入を確保できたのはヴァロワ家派で、彼らがイングランド王派を駆逐した。
してみると、イングランド王派側は、もはやイングランドでは都市と商人団体による財政的支援が断たれていから、フランス各地を転戦しながら、獲得した所領・領地で農村や都市を収奪してかろうじて戦費を確保できたにすぎない――それゆえまた民衆の抵抗が激化し、戦争は袋小路に追い込まれる――ということになる。
この一連の戦争は、傭兵が本格的に投入された、貨幣経済によって立つ商業的戦争だった。それゆえ、戦場やその近辺では、傭兵による殺戮や掠奪、破壊もまた苛烈だった。ヴァロワ王権は、戦乱や傭兵を忌避し「王の平和」を求める都市代表や貴族代表の支持を得て戦費割当税を導入することができたため、正規軍の傭兵団に俸給を支払うことで、軍の規律と統制をはかることができた。それゆえ、軍の展開にさいして民衆の抵抗や蜂起による打撃がずっと少なかったようだ。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成